スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

無断転載禁止 引用時には出典を明記の上、記事に直接リンクを張って下さい。
詳細はお問合せ下さい。
Copyright(C) Doughnuts.JP, US万次郎. 2009-2011. All Rights Reserved.

--/--/--(--) | スポンサー広告 | トラックバック(-) | コメント(-)

【エッセイ#44】 「Enterprise」

 スミソニアン航空宇宙博物館の「Steven F. Udvar-Hazy Center」には、テスト飛行用に造られたスペースシャトルの1号機が展示されています。もともとアメリカ合衆国憲法発布200年を記念して「コンスティテューション」(Constitution)と名付けられる予定だったこの人類初のシャトルは、数千、数万というリクエストの手紙が届いたことから「エンタープライズ」(Enterprise)と命名されました。当時の大統領ジェラルド・フォードによる決定です。

 人類の宇宙開発に新たな可能性をもたらすだろうと期待されたスペースシャトルの1号機の名前は「エンタープライズ」しかないと、アメリカ中から手紙を送ってきたのは「トレッキー」と呼ばれる人たちでした。「トレッキー」とは、人気SFテレビ番組「スタートレック」(Star Trek)のファンたちのことです。

 1966年に始まったこのテレビシリーズは、ウィリアム・シャトナー扮するカーク船長と、とんがり耳の異星人、ミスター・スポックを中心に、宇宙船「エンタープライズ」で人類未到の宇宙を旅する物語です。登場人物の個性的なキャラクター設定とコミカルな会話、細かな未来の技術設定や哲学的なストーリーでオタク心をくすぐり、全米にファンを生み出しました。しかしこのシリーズでは、原作者のジーン・ロッデンベリー(Gene Roddenberry)が本当に描きたかった、人類の無限の可能性と平和をもたらす多様性を表現することはできなかったそうです。

 ジーン・ロッデンベリーは1921年8月19日、テキサス州エル・パソ(El Paso, TX)に生まれました。青年時代をロサンゼルスで過ごした彼は、警察官であった父を見習って警察学校に入学しましたが、途中で航空工学を専攻するためにUCLAに編入、その後空軍に志願すると、アメリカが第二次世界大戦に参戦した頃には、士官候補生として訓練を受けるようになりました。そして少佐としてガダルカナル戦でB-17を操縦し、89もの作戦に参加したそうです。

 戦争中、ジーンはすでに執筆活動を始めていました。いくつかの物語や詩を雑誌社や新聞社に売っています。そして戦争から帰ると、彼は飛行機事故の調査員や、民間航空会社のパイロットの仕事をこなしながら、コロンビア大学で文筆の勉強を続けていました。

 そんなある日、アメリカにテレビが登場しました。それまで本や雑誌、ラジオしか知らなかったジーンは、この新しいメディアを目にしたとたん「テレビ業界には、まったく新しいタイプのシナリオライターの仕事があるに違いない」と確信したそうです。そしてパイロットとしてのそれまでのキャリアをあっさり捨てると、テレビの将来に賭けてハリウッドへと向かったのです。

 ハリウッドでは、友達の薦めもあってロサンゼルス市警に務めました。警察官としての経験が、シナリオライターとしての仕事のネタになると考えたのです。そして開業したての小さなテレビ番組制作会社に売り込みを続けました。たいした制作費も持たないこのような制作会社なら、経験のない新人ライターを安く雇ってくれる可能性があったからです。

 ジーンが巡査部長にまで昇格したころ、彼の脚本も売れ始めました。ライターとしての仕事が安定するとフリーランスとして独立、やがて人気テレビシリーズ「Have Gun, Will Travel」のメイン・ライターにまでになりました。そしてこのシリーズで「Writers Guild Award」を受賞すると、ジーンの脚本は「Have Gun, Will Travel」を担当する他のライターたちの手本として採用されたのです。

 こうして人気ライターとなったジーンは1965年、「スタートレック」の台本をNBCテレビに持ち込みました。しかし内容があまりに哲学的すぎるという理由でボツになり、新たに書き直しを強いられました。そしてようやく番組の制作が許可されるまでには、個性的すぎるスポックを外すかどうかなど、局側とのさまざまな交渉があったそうです。結局、スポックこそが「スタートレック」の重要登場人物であるというジーンの主張が通りました。

 1969年に「スタートレック」の放送が終了した後も、ジーンはさまざまな番組を手がけてきました。しかし「スタートレック」はいつしか国民的SF番組となり、ファンの間からは続編を待ち望む声がやむことはありませんでした。そして「スタートレック」の放送終了から18年後の1987年、ついに続編の制作が決まります。

 「スタートレック・ネクストジェネレーション」(Star Trek: The Next Generation)と題された新シリーズは、前回から1世紀後を舞台に、あらたな乗組員が「エンタープライズ」で宇宙を旅する物語でした。当初はカークやスポックがいないなんて「スタートレック」じゃないと不評でしたが、さらに個性豊かなキャラクターと、まるで現実の世界情勢を惑星連邦という異星人のコミュニティーに再現させたような奥の深いストーリー、そして人類の多様性をどこまでも追求した哲学は、またたくまにアメリカ中のトレッキーたちの心をつかみました。そしてこれこそが、ジーン自身が本当に表現したかった「スタートレック」の世界だったのです。

 ジーン・ロッデンベリーは1991年10月24日に他界しますが「スタートレック・ネクストジェネレーション」は7年にも渡って放送が続けられました。その後も彼の意志を受け継いで「スタートレック・ディープスペース9」「スタートレック・ヴォイジャー」「スタートレック・エンタープライズ」とシリーズは続いていきます。

 現在、カーク船長の宇宙船「USSエンタープライズ」の模型は、ライト兄弟の「フライヤー」やリンドバーグの「スピリット・オブ・セントルイス」に並んでスミソニアン博物館に展示されています。そしてジーンの遺灰は、彼の遺言通り小さなカプセルに詰められ、今でも地球周回軌道をまわっていることでしょう。




★ Websites

STARTREK.com

 スタートレックのオフィシャルサイト。



にほんブログ村 海外生活ブログ アメリカ情報へ ← お気に召したら、ポチッとクリックお願いしますね!(^^)
にほんブログ村




  US万次郎「アメリカのアパート検索」
      http://usmanjiro.web.fc2.com/apartments/index.html
       アカウント作って物件検索
        ↓
       入居が決まれば $100 プレゼント!




スポンサーサイト

無断転載禁止 引用時には出典を明記の上、記事に直接リンクを張って下さい。
詳細はお問合せ下さい。
Copyright(C) Doughnuts.JP, US万次郎. 2009-2011. All Rights Reserved.

2011/05/24(火) | 【エッセイ】 | トラックバック(0) | コメント(5)

【エッセイ#43】 「Chocolate Town」

 ヘンリー・ハーシー(Henry Hershey)は読書好きの好奇心旺盛な男でした。家族思いの良い父親ではありましたが、ビジネスの才能はまったくなく、生涯、金銭的に成功することはありませんでした。妻のファニー・ハーシー(Fanny Hershey)は気の強い女性で、夫の失敗にいつもイライラしていたそうです。ふたりはドイツやスイスからペンシルヴァニアへ移民してきたメノナイト派キリスト教徒の家系に育ち、いつも質素な生活を心がけていました。

 そんなふたりの間に生まれた息子のミルトン・ハーシー(Milton S. Hershey)は、やはりメノナイト派の人たちが使う古いドイツ語(Pennsylvania Dutch)を話しましたが、宗教的にはまったく自由に育てられました。ヘンリーとファニーは、もし「君の宗教は?」と聞かれたら、それは「黄金律」であると答えるようにミルトンに教えていました。「黄金律」とはつまり「あなたがして欲しいと思うことを他人にしてあげなさい」という、多くの宗教の基本となる教えです。

 ミルトンが生まれたのは1857年9月、南北戦争がはじまろうとしていた頃でした。学校はランカスターで7年生まで通いましたが、集中して勉強することはなかったようです。父親ヘンリーは、ミルトンが14歳になるとペンシルヴァニアのドイツ語新聞の編集部に彼を働きに出しました。しかしミルトンはこの仕事が大嫌いで、すぐに辞めてしまいます。次に母親のファニーがキャンディーとアイスクリームの製造会社に就職口を探してきました。ミルトンはここで、キャンディの作り方の基本を学ぶことになったのです。

 4年後、ミルトンは独立してフィラデルフィアで自ら菓子製造業をはじめました。母親が資金援助をしてくれて、叔母と一緒に会社を手伝いました。彼らは懸命に働きましたが、なかなか利益はでません。結局、6年間がんばったあげく、会社は倒産してしまいました。

 その頃、コロラドを旅していた父のヘンリーから励ましの手紙が届いていました。ヘンリーは手紙でいつも「コロラドは有能な起業家を探している。ここにはチャンスがある」と書いていました。会社を失ったミルトンは、父の言葉を信じてコロラド州デンバーへと旅立ちました。しかし不運なことに、デンバーはちょうど不況に陥ろうとしていたのです。起業のための資金を調達するのは難しいと判断したミルトンは、そこでキャラメル会社に就職口をみつけました。彼はここで新鮮なミルクを使ったキャラメルの製造方法を教わると、その技術を元に新たなビジネスを立ち上げようとデンバーを後にします。起業のチャンスを探してニューヨークへやってきたミルトンは、そこで2度目の挑戦を始めたのです。

 しかし結果はまた同じでした。会社は利益が出ず、倒産してしまいます。1886年のことでした。「自分も父親と同じでビジネスの才能はないのだろうか?」ミルトンは思い悩みながら、ランカスターへ戻ってゆきました。

 ところがここで突然、幸運の女神はミルトンに微笑みかけてきたのです。昔、フィラデルフィアの菓子会社でミルトンを手伝っていた元従業員が、資金援助を申し出てくれたのです。それを元に原料を調達すると、すぐに新鮮なミルクを使った新しいキャラメルの製造をはじめました。母親や叔母も再び駆けつけ、ミルトンを手伝いました。「お口の中でとろけるキャンディ」とうたった新製品 "Hershey's Crystal A"はヒット商品となりました。イギリスの輸入業者から大量の注文が入ると、銀行は工場新設のための資金援助を惜しみませんでした。こうしてミルトンは瞬く間にランカスターで一番の成功者に数えられるようになったのです。若い頃からの菓子づくりの経験と辛抱強さがもたらした成功でした。

 ミルトンはビジネスマンとしての才能をしっかり持っていました。「これからの時代、キャラメルではなくチョコレートだ」と判断すると、ようやく彼を億万長者にしてくれたキャラメル会社をライバル企業に売却してしまいました。そうして得られた資金を使って、今度はミルクチョコレートの開発を始めたのです。キャラメル会社から残った何人かのスタッフと共に、ミルトンは寝ずに新製品の開発に取り組みました。

 新しいミルクチョコレートが完成したのは1900年後半のことでした。爆発的な売り上げを記録したこのミルクチョコレートは、"The Hershey Chocolate Company"をみるみるうちに全米一のチョコレート会社にのし上げたのです。キャラメル会社を売却し、チョコレート開発に集中したミルトンの戦略は正しかったのです。

 チョコレートがもたらした莫大な富を使って、ミルトンは2つの大きな計画を実行しました。ひとつは「ハーシータウンの建設」。もうひとつは「孤児のための学校の設立」でした。

 工場で働く人々のために町をつくることは、決して目新しいことではありませんでしたが、彼の計画は徹底していました。居住施設はもちろんのこと、銀行、ホテル、学校、教会、公園、ゴルフ場、そして公会堂や動物園に交通システムや電話網まで造ると、それぞれが経営面でも成功を納めていきました。

 結婚はしていましたが子供に恵まれなかった彼は、学校の建設にも意欲的でした。特に孤児のための学校 "Hershey Industrial School" (現 Milton Hershey School)は、教育はもちろん、子供達への衣食住の提供や健康管理もしています。また将来のための職業訓練プログラムを提供、チョコレート・タウンで育った子供達が、チョコレート工場で働くことを可能にしたのです。




「ハーシー・ワールド」

 まず企業、つまり働く場をつくり、そこから生み出されたカネで基本的なライフユーティリティから公共施設までもつくってしまったハーシー・チョコレート。実はこの町は観光で訪れる人々のための施設も揃えているのです。

 1930年の大恐慌時、ミルトンはハーシー・タウンの開発方針を変更しています。不況で職にあぶれた人たちを雇い入れ、観光客のためのアトラクションの建設を始めたのです。それまで市民のために進められていたプロジェクトは、ホテルや劇場、スポーツ競技場などに変わってゆきました。このプロジェクトのおかげで600人以上の人たちが職を得ることができたそうです。

 現在ペンシルヴァニアのハーシー(Hershey, PA)には、ハーシー・チョコレートの歴史を展示した「ハーシー・ミュージアム」やローラーコースターなどのアトラクションが楽しめる遊園地「ハーシー・パーク」、バラ園を中心とした植物園「ハーシー・ガーデン」をはじめ、ゴルフ場やホテル、動物園などがあります。


★ Website

Visit Hershey

 Hersheysのウェブサイトの中から、観光客のためのアトラクションを案内しているページです。遊園地「Hersheypark」はこちら



にほんブログ村 海外生活ブログ アメリカ情報へ ← お気に召したら、ポチッとクリックお願いしますね!(^^)
にほんブログ村




  US万次郎「アメリカのアパート検索」
      http://usmanjiro.web.fc2.com/apartments/index.html
       アカウント作って物件検索
        ↓
       入居が決まれば $100 プレゼント!





無断転載禁止 引用時には出典を明記の上、記事に直接リンクを張って下さい。
詳細はお問合せ下さい。
Copyright(C) Doughnuts.JP, US万次郎. 2009-2011. All Rights Reserved.

2011/05/16(月) | 【エッセイ】 | トラックバック(0) | コメント(0)

【エッセイ#42】 「Peanuts」

 1950年10月2日、アメリカの新聞わずか7紙で連載が始まった「Peanuts」は、それから50年後の2000年2月13日の最終回までに、世界68カ国、2000紙もの新聞で連載されていました。なにをやっても失敗ばかりの主人公、チャーリー・ブラウン、おてんば娘のルーシー、天才ピアニストのシュローダー、そしてスーパー・ドッグ、スヌーピーといった愛らしいキャラクターたちは、いつしか4コマ漫画から飛び出して、テレビや映画、ミュージカルにまでなりました。

 「Peanuts」の生みの親、チャールズ・モンロー・シュルツ(Charles Monroe Schulz)は、1922年11月26日、ミネソタ州セントポール生まれ。ニックネームは「スパーキー」。当時、流行っていた漫画にでてくるスパーク・プラグという馬の名前からつけられたそうです。チャールズはまだ幼い頃から、年上のどんな子供達よりも上手に絵を描き、まわりからは「いつかきっと画家になる」と言われながら育ちました。しかし彼自身は後にこう語っています。

 「私が漫画家になるべく生まれて来たことは、なかなかみんなには理解してもらえません。本当に幼い頃から、私の夢は新聞に連載漫画を毎日描くことだったのです」。

 チャールズの家は理髪店を経営していました。決して裕福とは言えない家庭、父親は必死に働き、母親は末期癌に冒され絶えず痛み止めが必要だったにもかかわらず、チャールズの夢を叶えるために漫画の通信講座を受けさせていました。

 この講座が終了するとすぐに、チャールズは第二次世界大戦に出兵しました。機関銃部隊の軍曹だった彼は、仲間が家族へ宛てて書く手紙に、ちょっとしたイラストを描いてやるのが楽しみだったようです。入隊してすぐに、大好きだったお母さんが亡くなる悲しみもありましたが、軍での生活は引っ込み思案だったチャールズに自信を与えました。

 戦争から帰ると、一時は小冊子の漫画に「文字入れ」の仕事をしていたチャールズでしたが、やがて通信講座を受けていたArt Instruction Schools に職を得ることができました。そこで漫画を教えながら、自らも技術を磨いていったのです。そしてチャーリー・ブラウンという名の友達と出会ったのもこの頃でした。

 地道な売り込みを続けていたチャールズでしたが、ようやく「Saturday Evening Post」に何編かの1コマ漫画を載せてもらうことができました。これがプロの絵描きとしてのチャールズの第一歩だったのです。さらに「St. Paul Pioneer Press」に週一回の連載をはじめると、さらに日刊連載の契約を求めて売り込みを続けました。そして全米の新聞に漫画やコラムを提供している通信会社「United Feature Syndicate」(UFS)に1コマ漫画のサンプルを送りつけると、さらに自ら4コマ漫画のサンプルを持参してニューヨークにあるUFSのオフィスを訪れました。

 UFSのジム・フリーマンは名の売れた編集長でしたが、チャールズの作品を見ると即決で5年間の日刊連載契約を結びました。しかも1コマではなく4コマ漫画です。

 ただひとつだけ問題がありました。「L'il Folks」という漫画のタイトルです。「L'il Abner」と「Little Folks」というタイトルの漫画がすでにあったことから、ジムの独断でチャールズの作品は「Peanuts」というタイトルに変えられてしまいました。チャールズは、このタイトルだけは最後まで気に入らなかったそうです。

 1950年から連載の始まった「Peanuts」は数年のうちに大絶賛を得るようになりました。2年後には本の出版が決まり、さらにはオリジナルカレンダーが発売されると、続いてぬいぐるみやTシャツ、腕時計などのキャラクターグッズが次々と発売され、どれもが大ヒットしました。

 アメリカの厳しい現実社会を生きる大人達にとって、子供達の小さな世界を描いた「Peanuts」は、切ない人生の縮図だったのかもしれません。



にほんブログ村 海外生活ブログ アメリカ情報へ ← お気に召したら、ポチッとクリックお願いしますね!(^^)
にほんブログ村




  US万次郎「アメリカのアパート検索」
      http://usmanjiro.web.fc2.com/apartments/index.html
       アカウント作って物件検索
        ↓
       入居が決まれば $100 プレゼント!




無断転載禁止 引用時には出典を明記の上、記事に直接リンクを張って下さい。
詳細はお問合せ下さい。
Copyright(C) Doughnuts.JP, US万次郎. 2009-2011. All Rights Reserved.

2011/04/24(日) | 【エッセイ】 | トラックバック(0) | コメント(0)

 |  HOME  |  次へ

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。