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【エッセイ #00】 アメリカの精神

 壮大な自然と巨大なビル群のギャップ、気さくで陽気な人々、なにかが起こりそうな開放感、それとも、心のどこかで大きなサクセスストーリーを期待しているのだろうか?


 「類は友を呼ぶ」という言葉があるが、アメリカという国もある種の人々が集まり開拓してきた。彼らは自由と希望を夢見た経済的、社会的弱者というよりはむしろ、ゴールドとアジアへの新たな経済経路を求めてやってきた強欲のかたまりみたいな連中だった。彼らの”欲”がフロンティア精神を生むエネルギーとなり、ものすごいスピードで巨大な新大陸を開拓していった。いつしか「アメリカンドリーム」という言葉が生まれ、さらに多くの自由とサクセスストーリーを夢見る人々が移り住んできた。

 国際政治学者で読売新聞のワシントン支局長を努めていた浅井信雄さんが、著書「アメリカ50州を読む地図」のなかで、アメリカのとある農場の入り口に掲げられていた「私は米国人なり。私の信条」と題する言葉を紹介している。

 私は凡人にならぬ。非凡たるは私の権利なり。
 私はチャンスを求むるも、安定は求めぬ。
 国家に庇護(ひご)される卑(いや)しき市民にはならぬ。
 ユートピアの保証された安穏より、人生のチャレンジを好む。


 (浅井信雄著「アメリカ50州を読む地図」新潮文庫 7頁より抜粋)

 地方の農場に掲げられていたこの言葉こそ、本来あるべきアメリカ人の精神ではなかろうか?残念ながら現代の多くのアメリカ人は、安定した生活を守るために凡庸で多忙な毎日に追われてる。それでもこの国の根底にあるこの精神が、今でも世界中の多くの人たちの心を惹きつけている。


 自分の視線でアメリカを紹介してみたかった。旅したり、暮らしたりしながら見てきたこの国の魅力をまとめてみたかった。このエッセイは毎週末に発信します。

ーーそとも 


 ★ Book

 「アメリカ50州を読む地図」 浅井信雄著 新潮文庫

 政治、経済、開拓史を中心にアメリカ50州(正確には50州と1特別区)をひとつづつ紹介。州がかわれば文化もかわる。地方ごとに多彩な文化を持つ「合州国」アメリカを、簡潔にまとめた一冊です。


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2009/09/19(土) | 【エッセイ】 | トラックバック(0) | コメント(0)

【エッセイ#01】 「THE KING」

 まず食パンにピーナツバターを塗ります。できれば粒々が入っているやつがお勧め。次にバナナの皮をむいてから輪切りにし、ピーナツバターを塗ったパンの上に敷き詰めます。そして食パンをもう一枚、バナナをのせたパンとあわせてサンドウィッチにします。仕上げにオーブントースターでよく焼いてできあがり。コーヒーと一緒にかじりながら今週のコラムをお楽しみ下さい。


 1950年代、アメリカの音楽は大きな転換期を迎えていた。白人系アメリカ人のカントリーミュージックと、アフリカ系アメリカ人のR&Bが融合し、「ロックンロール」という言葉が生まれた。直立不動で歌うスタイルをうち破り、マイクスタンドを握りしめ、腰を振りながら熱唱するロックンロールが初めてテレビで放映されたとき、ものすごい数の抗議の手紙が局に届いたという。

 当時は不作法とされていたスタイルを、甘いマスクと抜群の歌唱力、セクシーなダンスでうち破ったのはエルビス・プレスリー(Elvis Presley)、後にアメリカでキングと呼ばれる男だった。人々は彼を見て熱狂し、古い決まり事を捨て、自由に自分を表現することに目覚めたのだ。


 メンフィス(Memphis, TN)からクルマで1時間ほどの小さな街の貧困家庭に生まれたエルビスは、アフリカ系アメリカ人のコミュニティに接した環境の中、R&Bやゴスペルの影響を受けて育った。信心深かった母親は彼を毎週末教会へ連れていったという。そしてエルビスは54年のデビューとともにロックンロールをアメリカ中に広め、音楽をそのジャンルだけではなく、人種をも越えたアメリカ文化へと育て上げたのだ。

 エルビスをキングと呼ぶとき、それは「ロックの王様」を意味する。でも、それだけではない。アメリカ人にとってのエルビスは、ビートルズよりも偉大なのだ。彼は人種差別という壁を持たなかった。稼いだカネの半分はチャリティや寄付に使った。どんなに高価なものでも、誰にでも惜しみなく与えた。彼の歌に愛がこもっているのは、そんな人柄からだろう。エルビスをキングと呼ぶとき、アメリカ人にとってそれはジーザスに次ぐほどの尊敬を意味する。彼は「神の啓示」のかわりに素敵な音楽を与えてくれたのだ。


 いまでもエルビスの人気は衰えることがない。どこかで催し物があれば、定番のジャンプスーツとリーゼントヘアーにもみあげという、エルビスのそっくりさんを必ず2、3人は見かける。ラスベガスではイベントや結婚式の余興にと、いつでも50人以上のエルビスがいるらしい。南部の街では「本物のエルビス目撃談」や「エルビス生存説」だってある。

 メンフィスにあるエルビスの家、"Graceland"。その敷地内にある"Meditation Garden" には、エルビスと彼の両親、生まれてまもなく亡くなった双子の兄弟と祖母が葬られている。77年 8月、42才のエルビスは愛する母の元へと旅立っていった。激しいスポーツの後の心筋梗塞だった。薬物中毒にかかっていたという噂はまったくのデマだ。

 エルビスのお母さんのレシピをそろえているレストラン、"Elvis Presley's Memphis" のピーナツバターとバナナのサンドウィッチが、クリントン元大統領のレシピ集 "Clinton Presidential Center Cookbook" で紹介されている。 メンフィスのビール・ストリートにあったこのレストランは、残念なことに経営難から2003年9月に閉店してしまった。


 クリントン元大統領といえば、おとなりアーカンソーが出身地。インターステイトハイウエイ40号を西へ、メンフィスのダウンタウンのビル群を横目にミシシッピー川をまたぐ大きな橋を渡ると、橋の中程にある州境で「ようこそ、ビル・クリントンの生まれ故郷へ」という看板が迎えてくれる。振り返ると後ろはテネシー。「ようこそ、アル・ゴアの生まれ故郷へ」という看板が見送ってくれる。




「Coffee Table Book」

 アメリカの家庭のリビングルームには、家族団らんやお客さんをもてなすためになくてはならない三種の神器があります。それは、ソファーと暖炉とコーヒーテーブルです。日本で言えば、座布団と床の間とコタツといったところでしょうか?

 円形や長方形などさまざまな形のコーヒーテーブルの高さはだいたい膝の辺り。ゆったりとしたソファーに深く座ると、お茶を手に取るのに身を乗り出さなければなりません。すると、テーブルの上に無造作に置かれた本を見つけることがよくあります。Coffee Table Bookと呼ばれるこの本は、国立公園の写真集であったり、レシピ集であったり、植物図鑑であったりします。

 アメリカのリビングで見かけた Coffee Table Book のなかで「これは面白い!」と思ったものに、「女性のためのNFL観戦ガイド」、「世界地図」それに「浮世絵画集」なんていうのがありました。いずれも実用的というよりは、写真や絵をみて楽しむ絵本といったところです。

 アメリカの本屋さんの入り口に、いろいろな Coffee Table Book が山積みになって安売りされているのをよく見かけます。ちょっと大きめで重いものが多いのですが、こちらへいらしたときなど、しゃれたのがあったらおみやげにいかがでしょうか?




★ Websites

J & D Richardson Limited Edition Original Photographs

 "Elvis Presley's Memphis" や"B.B.King Blues Club"が軒を連ねるビール・ストリート。巨大なピラミッド型のコンベンションセンター。メンフィス郊外の Colliervilleの風景など、アメリカ南部の美しい写真をお楽しみください。サイト運営者のJ & D Richardsonはプロカメラマン。気に入った写真があったらオンラインで注文、日本にも送ってくれます。

Graceland Official Site

 エルビスが愛したメンフィスの豪邸 "Graceland" のオフィシャルページ。館内を巡るバーチャルツアーや、現地でのツアーの案内があります。


★ Book

The Clinton Presidential Center Cookbook:
A Collection Of Recipes For Family And Friends


 モハメド・アリ、ボノ、クリスティ・ブリンクリー、チェビー・チェイス、ウーピー・ゴールドバーグ、ドン・ヘンリー、クインシー・ジョーンズ、ブルース・リー、ソフィア・ローレン、メリー・スティーンバーゲン、バーブラ・ストライサンド、エリザベス・テイラーなど250人の有名人から集めたレシピ集。売上はクリントン元大統領の出身地、アーカンソーの州都リトルロックにある"The Clinton Presidential Center"(クリントン大統領図書館)の建設資金となりました。実用的なレシピ集というよりは、ながめて楽しむCoffee Table Bookです。




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2009/09/26(土) | 【エッセイ】 | トラックバック(0) | コメント(0)

【エッセイ#02】 「Chasers 追跡者たち」

 みなさんこんにちは、今年もまた2週間のツアーを行います。細かい日程は別紙をご覧下さい。参加費は$2500、予約時に$400ドルお支払い下さい。これはキャンセルしても戻ってこないので気を付けて。

 当日は現地集合なので飛行機の手配は各自でするように。そのかわりオクラホマシティーの空港まで迎えのバンを出します。手荷物は一人ひとつまで。スペースが限られているのでご協力をお願いします。それから、セーターかウィンドブレイカーを持ってくることをお勧めします。あと、こちらで撮影したビデオテープをおみやげにお渡ししますが、自分で撮りたい人はビデオカメラを持ってきてかまいません。退屈しのぎにiPodもあるといいかもしれない。

 今年も私たちの守備範囲は広大です。北はカナダ国境から南はメキシコ国境まで、西はロッキー山脈から東はインディアナまで、ターゲットを追って連日大平原を走りまわります。くれぐれも動きやすい服装で、荷物はシンプルに。

 それでは、予約のお申し込みをお待ちしています。



 毎年、春先や秋など季節の変わり目になると、北からの乾いた冷たい空気と南のメキシコ湾からの湿った暖かい空気がぶつかり合い、アメリカ南部から中西部にかけて暴力的ともいえる嵐、サンダーストームをもたらす。死亡者を出すほどの災害を引き起こす暴風雨も多発し、アメリカ大陸を南北に走る「竜巻街道」(Tornado Alley)を中心に、毎年700 個を越える竜巻が発生、多くの犠牲者を出している。

 そんな中、暴風雨や竜巻を追いかけて平原を走りまわる気象学のプロ集団がいる。彼らはオクラホマにあるNational Severe Storms Laboratory (NSSL) から気象データを集め、大型のバンに自前のレーダーや気象衛星からのデータを受け取る通信装置を積み込んで、嵐と稲妻と竜巻を追いかけながら大平原を走り続ける。多くは気象メカニズムを解明するための研究調査が目的だが、じつは、ただ単に竜巻が大好きというのが彼らのホンネのようだ。

 Storm Chaserと呼ばれる彼らの多くは、子供のころから暴風雨や竜巻が大好きで、将来は気象学者になって竜巻を追いかけたいと夢見ながら大人になった。穏やかな気候の南カリフォルニアに生まれ育ったマット・クロウザー(Matt Crowther)は、日常生活で凄まじい嵐や竜巻に出会うことはなかった。だから毎年夏休みにアイオアのおばあちゃんのところへ遊びに行くと、家の屋根の上に座り、嵐がやってくるのを待つのが楽しみだったと言う。 一方、ベッツィ・アブラムス(Betsy Abrams)はハリケーンの熱狂的な大ファンで、マットが Hurricane Chaseにつきあってくれるなら、喜んで一緒に行くと言っている。

 Storm Chaseは、当然だがとても危険な行為だ。特にTornado Chaseは多くの経験と知識を必要とする。アタマが割れそうに痛くなるくらいの低気圧、世界が輝いて見えるほどに澄み切った透明な空気、遠くの山を照らす日の光。はじめはそよ風が顔をなでて通り過ぎていくだけだ。が、気づくと、いつしかどんよりとした重い雲が手の届きそうな所まで低くたれ込み、大きな雨粒がクルマのボンネットをたたき始める。「それ」は突然現れる。時には大雨のスクリーンや稲妻に隠れて、目前に迫るまで気付かないこともある。そして自動車ほどのスピードで不規則に動き回り、地上にあるあらゆるものを空に巻き上げていく。木をなぎ倒し、屋根をはぎとり、大型トレーラーを数マイル先まで吹き飛ばす。

  マットは言いう。

 「Storm Chaseは気象予報の良い訓練になる。だって、いつどこに現れるのか正しく予測できなかったら、せっかくの竜巻を見逃しちゃうからね」。

 「正しく予測できなかったら、竜巻から逃げ遅れてしまうよ・・・」という言葉を期待してしまうが、どうやらそういうことは心配していないみたいだ。それより、巨大な気象現象を見逃すまいと、いつも鼻を鳴らして空気の匂いをかぎ分けている。彼らはただひたすらにStorm Chaseが大好きなのだ。


 気象予報士や研究者が、観光客を相手にStorm Chasing Tourを開いてる。大型のバンに5~6人のツアー客を乗せて、アメリカの大平原を暴風雨や竜巻を追いかけて移動する。多くのツアーがオクラホマシティーから出発、その移動範囲は広くコロラドの東からカンサス、ミズーリと移動、時には 1日に500マイル以上も走る。夜には気象学の講義や、地元の観光スポットを尋ねるオプションも付く。

 ツアーは毎年5月から6月がピーク。来年の予約受付はすでに始まっています。座席に限りがあるので、お申し込みはお早めに。




 「F」

 春先、アメリカの南部から中西部にかけて暴風雨と竜巻の季節です。テレビのローカル局では暴風域が移動していく様子を実況中継、あなたの住んでいるエリアが暴風域に入る時刻を分刻みで伝えてくれます。それと同時に出されるのが竜巻の発生状況。もしもテレビ画面の端に "Tornado watch" と出ていたら、そのエリアで竜巻が発生する可能性があることを意味しています。もしくは "Tornado warning" と出ていたら、それはすでに竜巻が発生していることを意味します。竜巻の多発地帯に建つ家ならば、非難用のシェルターが地下に埋め込まれているので非難します。野外にシェルターの入り口がある場合には、 "Tornado watch" が出た時点で非難して下さい。状況は秒単位で変化します。特に夜間は竜巻が目前まで来ないと見えません。シェルターがない場合には家から出ないようにしてください。ドアや窓の近くに寄らず、家の中心にいて下さい。最も安全な場所はバスタブの中です。

 竜巻は、その規模と破壊力をF0からF5までの6段階で表します。F1で日本の大型台風の最大瞬間風速並み、F3では鉄筋の建物が倒壊、F5ではあらゆる建物は跡形もなくなり、クルマや電車が空を飛びます。 このFという単位、じつはFujita Scaleといって、シカゴ大学の故藤田哲也博士によって考案されました。アメリカの竜巻研究の第一人者は、日本人だったのです。




 ★ Websites

 The Silver Lining Tours  Tempest Tours

 Storm Chasing Tourのサイトを2つご紹介。どちらも来年春のツアー予約を受け付けています。「Tempest Tours」には日本語での案内ページもあります。

 ツアーに参加しない方も、フォトギャラリーが楽しめます。アメリカの竜巻がどういうものか、是非一度のぞいてみて下さい

 たつまき博士の研究室  

 「藤田記念館建設準備委員会」による故藤田博士についてのサイト。竜巻のメカニズムや、藤田博士の経歴、藤田記念館の紹介があります。F0からF5まで、それぞれの被害状況がわかる写真もあります。日本の台風など、これに比べれば「そよ風」です。

. ★ DVD

 ツイスター Twister

 自作の観測器「ドロシーII」をピックアップトラックに積んで竜巻(ツイスター)を追いかける研究者集団。CGで再現したツイスターは迫力満点。とくに、夜の闇の中から現れる竜巻の不気味さには恐怖を感じます。オクラホマの大平原を爆走する車列も見ていて爽快。SFパニック映画というよりは、豪快なコメディ映画ではないかとボクは密かに思っている。だって、クレイジーだよ、あの人達・・・。

 制作:スティーブン・スピルバーグ
 監督:ヤン・デ・ボン
 主演:ヘレン・ハント




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2009/10/03(土) | 【エッセイ】 | トラックバック(0) | コメント(0)

【エッセイ#03】 「オズ」

 「オズの魔法使い」(The Wonderful Wizard of Oz)の原作者、ライマン・フランク・ボーム(Lyman Frank Baum)は、オンタリオ湖の近く、ニューヨーク州のある小さな町に生まれた。1856年のことだ。生まれつき心臓が弱く、学校へも通えなかったライマンは、しかし演劇や文章を書くことが大好きだったという。若い頃はニューヨークで新聞記者として働き、ペンシルバニアでは自ら新聞を発行するなど、ジャーナリズムの世界で生きていこうとした。ところが彼の本当の興味は演劇にあったようだ。20代の頃からシェイクスピアを演じる劇団に参加、舞台に立ちながら演出もこなした。そして26才のとき、彼が書いた演劇「The Maid of Arran」が上演された。

 ライマンの父は石油事業で一財産を築いた資産家だったが、ライマン自身の人生は財政的に決して楽なものではなかった。結婚し子供ができると、職を求めてシカゴへ移る。そこで劇場や雑貨店の経営、雑誌の編集・発行などの仕事をしたが、あまりうまくはいかなかったらしい。


 1900年、ライマンの書いた「オズの魔法使い」が大ヒットした。44歳の時だ。それは新しい童話だった。むやみに子供達を怖がらせて教訓を教え込むような話ではなく、純粋に楽しめる童話。アメリカで生まれた新しいおとぎ話だった。

 「オズの魔法使い」の序文で、ライマンは「グリムやアンデルセンは歴史上の童話になりつつある・・・」と言っている。もう過去のものだということだろう。

 その後、ミュージカルや映画にもなった「オズ」は、今ではアメリカのスタンダードな童話として定着している。しかし文学的テクニックについての評価は低い。文章がシンプルでひねりもなにもないというのだ。子供達にとって、そんなことはどうでもいいことだったのだが。

 出版から30年あまりたった頃、アメリカの児童文学界でもっとも影響力があった人物の一存で、「オズの魔法使い」がニューヨークのすべての公共図書館から撤去された。理由はまったく明らかにされていない。その影響を受け、全米の図書館から「オズ」が姿を消し、まるで異端書のようにあつかわれるようになった。デトロイト図書館組合の会長は、「オズ」を撤去した理由を「くだらない内容の駄作」だからだと説明している。

 1960年以降、批評家達は突然「オズ」を評価するコメントを出し始めた。文章力や文学性は低いものの、心理学の面からみた「オズ」の意味や、「アメリカのフロンティア精神を表現している作品だ」など、その評価内容はこじつけのようなものばかりだったが、それでもそれをきっかけに「オズ」がアメリカの公共図書館に戻ってきた。


 30年以上にわたり異端書扱いされた「オズ」だが、子供達にはいつの時代も大人気だった。1900年の出版以来、ライマンの元には何万ものファンレターが届いた。その多くは「オズ」の続編を望むものだった。1904年、「オズの虹の国」(The Marvelous Land of Oz)を出版。ところがこの続編にはドロシーがでてこなかったものだから、寄せられるファンレターはライマンへの抗議の手紙に変わった。

 62才でこの世を去るまでにライマンが書いた「オズ」シリーズは全部で14編。「オズの虹の国」を除くすべての冒険にドロシーが登場している。彼の死後もさまざまな作家が「オズ」シリーズの続編を書き続け、今では40編もの「オズ」の冒険物語がある。ライマンの長男も1冊書いている。


 仕事を求めシカゴに移った頃のライマンは、子供を寝かしつけるために物語を創っては聞かせていた。ベットのなかで冒険物語を話すライマンに息子は聞いた。

  「それは、どこの国のお話なの?」

 その時、ライマンは部屋の隅にあるファイルキャビネットの引き出しを見ていた。一番上には「A-G」という整理用のラベルが貼ってある。二段目には「H-N」、そして3段目には「O-Z」とあった。




「図書館」

 アメリカ人は図書館が大好きです。小さな町にも公共図書館は必ずと言っていいほどあります。街の資産家や政治家が寄付をし、市民ボランティアが雑務をしているのがアメリカの図書館。亡くなられたレーガン元大統領が埋葬されたのもレーガン記念図書館・博物館(Ronald Reagan Presidential Library and Museum)、以前にご紹介したクリントン元大統領のレシピ集の売上も、クリントン大統領図書館(The Clinton Presidential Center)の建設費にあてられました。

 図書館の利用はもちろん無料。ただし延滞すると罰金が課せられます。映画のビデオやDVDを貸し出しているとこもろありますが、これは有料。それでも全米チェーンのレンタルビデオ屋、BLOCKBUSTERなどに比べれば格安です。館内には地方自治体や政府の情報提供コーナーがあるのが一般的。国勢調査のデータから、地元の学校、保育園の内部調査結果など、市民に役立つ情報が公開されています。

 入り口近くにはコンピューターが置いてあり、誰でも簡単に膨大な図書の中から目的の本を検索できます。日本の図書館ではコンピューターのキーボードを叩く音がうるさいと問題になっているという話を聞きました。なるほど、便利とはいえ、いろいろ不都合もあるものだなと思ったものです。アメリカではみんな自分の調べものに忙しいのか、誰もそんなことは気にしていないようです。もちろん、大声でおしゃべりする人はいませんが。




「オズの魔法使い」書籍いろいろ

 「オズの魔法使い」が売れたのは、デンスロー(W.W. Denslow)の挿絵があったからとも言われます。その後、ライマンとデンスローは著作権のことで不仲になり、結局デンスローが挿絵を描いたのは一作目の「オズの魔法使い」ただひとつだけでした。




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2009/10/10(土) | 【エッセイ】 | トラックバック(0) | コメント(0)

【エッセイ#04】 「ウォーレン・バフェット」

 80年代の終わりから90年にかけて、カリフォルニアでは不動産への過剰投資の余波を受けて不況が襲っていました。好景気下での建設ラッシュの末、借り手がつかないまま空き室になったオフィスビルが建ち並び、どこのアパートも格安の家賃で借りることができたのです。不動産建設には銀行が多額の融資をしています。不動産価格が下がれば、当然銀行もただではすみません。当時、カリフォルニアの銀行はいくつか潰れるだろうとさえ言われていました。

 そんな中、西海岸を中心に展開している大手銀行、ウェルス・ファーゴ(Wells Fargo)の株式を大量に買った金持ちがいました。オマハの大投資家、ウォーレン・バフェット(Warren Buffett)です。多くの銀行が無謀としか思えないような無理な融資を行っていた事実が毎月のように発表される中、今にも潰れそうなウェルス・ファーゴを大量に買うなんて、誰の目にもクレイジーでした。ジョークの効いた皮肉屋の多いアメリカの金融業界、「これでバフェットは莫大な遺産の相続問題についてアタマを悩ます必要もなくなるだろう・・・」などという嫌味も聞こえてきました。

 バフェットはネブラスカ州オマハの大平原に生まれ、コロンビア大学の大学院で投資を学びました。半永久的に繁栄して行くと考えられる優良大企業だけに投資を続け、ビル・ゲイツ(Bill Gates)に次ぐ全米で2番目の金持ちになりました。鋭利な刃物のように切れる頭脳とオヤジギャグを連発するユーモアのセンスを持つバフェットは、「トウモロコシ畑の資本主義者」などと親しみを込めて呼ばれています。


質問:「ジレットに投資している理由は?」

バフェット:「一年間に世界でカミソリの替え刃が200億枚以上も使われているそうです。今こうしているあいだにも、25億人の男性のヒゲが少しずつ伸びているのです。そう考えると、毎晩とても心地よく眠りにつけます。ジレットの社員にも不眠症の人はいないと思いますよ」

質問:「あなたが経営している会社の株をもっています。万が一あなたが死ぬようなことがあったら、株価はどうなるでしょう?」

バフェット:「もちろん、万一のときに備えてどう対処するべきか取締役と話はしています。でも考えてもみてください。そのとき私が被る被害に比べれば、あなたの被害は大したことではないでしょう?」


 バークシャー・ハザウェイ社(Berkshire Hathaway Inc.)の最高経営責任者を務めるバフェットは、毎年開かれる同社の株主総会で5時間も6時間もの長時間にわたり、株主との質疑応答に応じています。投資に対する彼の意見を聞けることは確かにすばらしいことですが、それ以上に彼のユーモアあふれるトークに人気があるのも確かです。

 バフェットがウェルス・ファーゴの株式を大量に買ってから3年後、銀行は潰れるどころか、大きく立ち直りつつありました。当時なぜ危険と言われたウェルス・ファーゴを買ったのか、後に株主総会で自ら理由を説明しています。

 「私は、経営がずさんな銀行にたいしては、どんなに株価が安くても興味はありません。ウェルス・ファーゴに関しては、不況下でかなり割安に買えたことに加え、最良の経営陣がいたことが大きな理由です。彼らはお互いを理解し、信頼し、尊敬しあっています。そしてどんなに利益があがっているときでも、経費削減に務めています」。

 当時バフェットがウェルス・ファーゴに投資したお金は、そのとき10倍以上にもなっていました。彼はこのような投資を、もう何十年も続けているのです。




「富豪ともだち」

 大金持ちと言えばビル・ゲイツですが、彼と資産額全米一位の座を争っているのがバフェット。親子ほどの年の差のある彼に、ゲイツははじめなかなか会いたがらなかったそうです。ところが一度あったら、あっという間に意気投合。トランプのブリッジというゲームが大好きなバフェットに、オフィスで遊べるようにとコンピューターをプレゼントしたという話です。それまでバフェットのオフィスにはコンピューターはなかったらしい。




 ★ Website

Berkshire Hathaway Activewear Collection

 バフェットが最高経営責任者を務めるバークシャー・ハザウェイ社のポロシャツやキャップが買えます。デザインは毎年かわります。札束を鷲づかみにしているワンポイントの入ったシャツがお気に入りだったのですが、買い損ないました。


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2009/10/17(土) | 【エッセイ】 | トラックバック(0) | コメント(0)

【エッセイ#05】 「Manifesto Destiny」

 1800年代初頭、アメリカの国土はまだ太平洋までは達していませんでした。現在の地図でいうところのテキサス、オクラホマ、カンザス、コロラドより西はスペイン領、北西岸のオレゴン、ワシントンはアメリカとイギリスの共同領地でした。共同領地とは言っても実際はネイティブアメリカンの土地で、アメリカ人もイギリス人もほとんど入植していなかったのが事実です。

 スペイン領だったアメリカ南西部はメキシコとして独立しますが、経済的に国力が弱く、アメリカから幌馬車を率いてやってくる商人たちにさまざまな物資を依存していたのです。やがてアメリカ人はテキサスに植民地をつくり、サンタ・フェに貿易取引所を開きました。そこでアメリカの商人たちは、持ってきた物資をその8倍もの価値に当たる銀や毛皮と交換することができたそうです。こうしてミズーリ州インディペンデンスの街を始点にサンタ・フェ・トレイルと呼ばれる貿易路が整備されていきました。やがてアメリカの勢力が強まるにつれメキシコとの経済摩擦が生じ、後の「アラモの戦い」へと発展していきます。

 一方、北の経路を開拓して西へ向かう探検も極秘のうちに進んでいました。

 「なぜ極秘だったのか?」

 それはイギリスとの共同領地であるはずの土地開拓を独自に目指していたからです。目的は北西部で取れる毛皮。1804年に最初の探検隊が派遣されてから6年後、ロッキー山脈を越えて西へ抜けるオレゴン・トレイルが完成しました。

 1840年代に入ると、西部開拓移民がこぞってこのトレイルを旅しました。大平原が人と幌馬車でいっぱいになり、大変混み合ったそうです。その後、大陸横断鉄道ができるまでの25年間に50万人以上の人たちが旅しました。

 幌馬車を引いているのは馬ではなく牛。牛は馬よりも安く、平原に生える草を食べることができたのです。幌馬車には最低限の生活用品と大量の食料が積まれていました。人は馬車には乗らずに歩いたのです。オレゴンまで2000マイルにも及ぶ旅は半年かかりました。彼らの最大の敵は事故と伝染病。約1割の人が目的地を見ずに死んでいったそうです。

 アメリカからの開拓民が北西部に多く入るようになると、イギリスとの領土問題をはっきりさせる必要が出てきました。1844年、民主党の大統領候補となったジェームス・ポーグ(James Porg)は、選挙運動に「54度40分でなければ戦争だ」というスローガンを掲げました。これは「北緯54度40分をイギリスとの国境にしないのならば、戦争するぞ」という脅し文句です。もちろん戦争などというのはハッタリだったのですが、"Fifty Four Forty or Fight"という "F" 続きのスローガンはなかなか好評だったようです。

 そしてポーグは大統領となり、北緯49度線がイギリスとの境界線に決まりました。これが今のカナダとの国境です。

 「アメリカはなぜそこまでして西への開拓路をもとめたのか?」

 この答えこそが、同じ新大陸においてカナダにはない、アメリカ合衆国の独立心と向上心の源だったのかもしれません。領土拡張論を持つ政治家たちのスローガンとして都合よく広められた言葉、「マニフェスト・ディステニー」(Manifesto Destiny)の元に西部開拓は進められていきました。「マニフェスト・ディステニー」とは、「アメリカ合衆国が太平洋まで国土を広げ、大陸国家となるのは神から与えられた使命、天命なのだ」という意味です。

 ポーグ大統領によりはじめて西海岸を領地にしたアメリカは、これでとうとう大陸国家となる天命をはたしたのです。




「ドライブ旅行の勧め」

 アメリカ国内を旅行するといえば、飛行機を思い浮かべるでしょうか?ところが長距離を移動するにもクルマを使うアメリカ人は少なくありません。インターステイトハイウェイが全米を網の目のように走り、東海岸から西海岸まで4日もあれば横断できます。トランクに荷物を積めるだけ詰め込んで、気軽に出発できるのがドライブ旅行のいいところ。特に子供がいて荷物が多くなりがちな家族には飛行機よりも気楽で便利です。

 インターステイトハイウェイをドライブ旅行するなら、ぜひ利用したいのがモーテル。ハイウエイの出口が近づくと、レストランやガソリンスタンドのインフォメーションと一緒にモーテルの看板が現れます。値段も手頃で、安いところでは50ドルほど、物価の高い大都市近くでも、郊外のモーテルなら100ドル前後で泊まれます。部屋にはコーヒーメーカーやアイロン、ドライヤーもあり、冷蔵庫があることろも珍しくありません。コインランドリーが使えるのも、長期旅行者にはうれしいです。朝食がついるのはもはや常識。朝、ダイニングに降りていくと、出張のビジネスマンや家族連れの旅行客に出会えます。




★ Websites

Nebraska Studies

 ページの下の方で、オレゴン・トレイルのルートや当時の幌馬車隊を再現したムービーをみることができます。アメリカの学校教材ですが、英語が苦手な方も映像を楽しめると思います。

US万次郎 ホテル検索・予約

 アメリカのTVコマーシャルでお馴染みの大手ホテル検索・予約サイト「Hotels.com」 のシステムを使っているので安心&パワフルです。ホテルの検索から予約/キャンセルまで全てオンラインで可能です。



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2009/10/24(土) | 【エッセイ】 | トラックバック(0) | コメント(0)

【エッセイ#06】 「UP and DOWN」

 ライト兄弟の初飛行から6年後、材木会社を経営するひとりの若者は生まれて初めて飛行機を見たときの感動から、自ら飛行機を作って商売にすることを決心しました。当時の飛行機の主な材料は木材だったのです。海軍のエンジニアである仲間とふたりで飛行機づくりの勉強をはじめたのですが、まず彼らがやったことは飛行機の操縦を習うことでした。そして1916年、シアトルにある湖の畔にとうとう水上機を完成さます。

 彼の名はウィリアム・ボーイング(William E. Boeing)。はじめて作ったB&W複葉水上機の初飛行テストの日、遅れてきた操縦士を待ちきれずウィリアムは自ら操縦桿を握り初飛行に成功しました。このB&W複葉水上機はそこそこ売れ、Pacific Aero Products Companyという独立した飛行機製造会社が誕生します。会社は翌年、Boeing Airplane Companyと名前を変えますが、飛行機の需要はまだまだ少なく、決して安定した経営ではありませんでした。

 第一次世界大戦が始まると軍隊という大きな顧客に戦闘機が売れ、ボーイング社は一気に大企業へと成長します。しかし戦争が終われば戦闘機も必要ありません。しかも当時のアメリカには飛行機製造会社はいくつもあり、競争も激しかったのです。ウィリアムはもともとは材木会社の経営者、ボーイング社は家具の販売でなんとか生き延びていました。

 1927年、ボーイング社は郵便配達のための飛行機を開発、シカゴー サンフランシスコ間を飛ぶ航空郵便サービスを開始します。このエアメールサービスは大人気で、次第に人も一緒に運ぶようになり、はじめての旅客機を開発、ボーイング社は再び大企業への道を歩み始めます。

 ところが1933年、フランクリン・ルーズベルト(Franklin D. Roosevelt)が大統領になるとボーイング社は再び谷間へと急降下を強いられます。大不況だった当時、一人勝ちに見えたエアメールサービスの不正を解明すべく政府は調査委員会を設立します。ボーイング社は独占禁止法違反とされ、ウィリアム自身は世間から「不正で金持ちになった悪党」というレッテルを貼られてしまいます。

 しかしエアメールサービスの実状は高いリスクと飛行機の維持費などで、決して儲かる商売ではなかったようです。そうした言い訳もほとんどせず、ウィリアムはボーイング社を退社、そのまま実業界から引退しました。51歳のときのことです。一方、ボーイング社は現在のユナイテッド航空を含む3社に分割されてしまいます。

 ボーイング社がふたたび飛び立ったのは、またしても戦争がきっかけでした。第二次世界大戦において軍から大量の注文を受け、B29をはじめとする大型爆撃機を開発しました。戦争が終われば注文がなくなるのは前回同様、7万人以上の社員をリストラして次なる挑戦、ジェット旅客機の開発を始めます。

 まったく勝負の見えないギャンブルだったジェット旅客機の開発は大成功でした。ボーイング707の大量生産を始めると、小型旅客機727や737を開発していきます。なかでも737は世界中から多くの注文があり、現在までに3000機以上を販売、史上最も売れた航空機となりました。そして1960年代後半の巨大プロジェクトから生まれたのが、大型ジェット旅客機ボーイング747。アメリカでは「ワイドボディー」、日本では「ジャンボジェット」という愛称で親しまれています。

 ウィリアム・ボーイングが去った後も、会社は彼の情熱を引き継いでいます。旅客機で大成功を納めると、いよいよ宇宙開発へ乗り出しました。人類を月へ運んだアポロプロジェクトに参加し、軌道衛星や月面車を開発しました。その後も数々の惑星探査計画やスペースシャトルプロジェクトにも技術参加しています。

 ところが経営の方は相変わらずのUP and DOWNが続きます。70年代初頭には5万人規模のリストラもしました。そして砂漠の緑地化計画や風力発電といったエコロジカルなプロジェクトをはじめ、軍事面ではステルスの開発、宇宙では国際スペースステーションの建設、そして旅客機では超音速旅客機の開発を進めながら、今また、あらたな離陸の時を目指しています。




「悪名高き航空会社」

 アメリカのビジネスパーソンに日常生活で嫌いな物を3つ教えてくれと聞いたら、「飛行機」と答える人は少なくないかもしれません。落ちるから?いいえ、トラブルが多いからです。彼らが嫌いなのは、正確には飛行機ではなく「航空会社」です。

 アメリカの人気ニュースキャスターがシリーズ化して特集するくらいに嫌われている航空会社、なにがそんなに悪いのかと言えば・・・ 飛行機が遅れるのはごく普通で、キャンセルされることもある。荷物がなくなる。チェックインに時間がかかりすぎる、乗り継ぎに何時間も待たされる・・・・ などなどです。

 実際、飛行機に乗っているよりも、空港で待っている時間の方が長いのはあたりまえ。テロ後は荷物検査もめんどうくさいし、乗り継ぎもしていないのに手荷物はなくなることも・・・。

 対処法は、出発より2時間以上前に空港に行き、手荷物にはなくなっていい物だけを預け、その日のうちに目的地に到着できないことをあらかじめ覚悟しておく・・・ いやいや、時間が許すのであれば予定の3日前からクルマででかける方が気が楽なんだけど、という方もいるみたいです。




 ★ Websites

Future of Flight Aviation Center & Boeing Tour

 Seattleの郊外、Everettにあるボーイングの工場の'見学ツアー。予約はオンラインで可。

The Boeing Company

 ボーイング社のウェブサイト。

Aerofiles

 ウィリアム・ボーイングが始めて作った水上複葉機B&Wです。下の写真は66年撮影の複製機(レプリカ)です。


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2009/10/31(土) | 【エッセイ】 | トラックバック(0) | コメント(0)

【エッセイ#07】 「一攫千金」

 インターステイトハイウェイ80号を西へ。ネバダからカリフォルニアに入りタホの針葉樹林を抜けると、州都サクラメントまであと30マイルほどというところで州道49号線と交差する。くねくねとした州道を20マイルほど南下すると、カリフォルニア発祥の地コロマ(Coloma)にたどり着く。

 ニュージャージー生まれのジェームス・ウィルソン・マーシャル(James Wilson Marshall)は、ミズーリ川の土手で農業を営んでいましたが、マラリアにかかってから、もっと温暖な土地に移ろうと西を目指します。オレゴン街道を途中で離れて南下し、当時は人口2万人にも満たなかったカリフォルニアに落ち着きました。1845年のことです。

 ジェームスはコロマの製材所で職を得ました。そして1月24日のよく晴れた朝、製材所の水車を回すための水路の工事を監督していたとき、水の流れの中に金を見つけたのです。最初、目に留まったのは豆粒ほどの金の塊ひとつでした。よくみると周辺にいくつもおなじような塊が転がっています。ジェームスはしばらく呆然として、そこに座りこんでしまったそうです。

 このニュースはたちまちカリフォルニア中に広まります。人々はそれまで就いていた仕事を離れ、ツルハシを片手にコロマに集まりました。サンフランシスコ周辺の沿岸部に住むほとんどの人たちが山間部へと移っていきました。港には舟を出す人もなく、商人も兵士もいなくなりました。新聞は読者と広告主がいなくなったため廃刊に追い込まれたほどです。

 「黄金郷」の話は東部へ、そして海外にも伝わります。ヨーロッパから大西洋を渡りアメリカ東部へ上陸。そこから再び舟で南下、南アメリカを大回りして太平洋へ抜け、サンフランシスコを目指します。もしくはパナマの地峡をわたる人たち、メキシコを横断してくる人たち、そしてアメリカ大陸を横断してくる人たち。1848年の暮れまでに、すでに1千万ドル相当の金塊が発掘されていました。そして1849年は移民者が最も多かった年。この1年でカリフォルニアの総人口は10万人を超えました。彼らは「49ers」と呼ばれ、ゴールドラッシュの代名詞になりました。そして同年、カリフォルニア州樹立のための手続きが始まったのです。

 金をきっかけに州に昇格したのはカリフォルニアだけではありませんでした。西部のほとんどの州が、金や銀、銅の採掘を目的に集まってきた人々によって作られました。コロラドに金鉱が発見されると数万人が押し寄せ、デンバーは一夜にして都市となりました。ネバダの西部には銀鉱が見つかります。このときアメリカで初めて、カリフォルニアからネバダへと人口が東へ向けて移動しました。他にもアイダホ、モンタナ、ダコタで金がみつかり、人々が集まっては都市を造っていきます。

 急激な人口増加に地方自治のシステムは追いつきません。金銀が運ばれる無法地帯では多くの強盗が襲ってきます。自警団を組織するところもありましたが、その自警団自体が無法者であったりと、とてもまともに機能しなかったようです。西部開拓の冒険物語から多くの英雄伝説が生まれ、100年後にハリウッド映画で活躍することになりますが、彼らの実体はただの悪党、決して英雄なんかではなかったようです。

 ところで金銀を求めてやってきた人たちは裕福な成功者になったのでしょうか?実際、ツルハシやスコップで採掘できる金は、表面にでているごくわずかな部分だけです。多くの「黄金郷」は、あまり長続きすることなくその繁栄の時を終えました。採掘のための設備と労働力、資本力を持った大企業だけが、多くの利益を得たのです。人々は自力での採掘をあきらめると、企業に雇われたり農業を始めたりしながら生活していました。

 コロマで最初に金塊を見つけたジェームスは自分が見つけた金鉱の権利を主張しましたが、政府は認めませんでした。結局、彼は「はじめて金を見つけた男」として知られる以外、なにも利益を得ることはできず、庭師としてその生涯を終えました。




「ブレトンウッズ体制」

 金は、その美しさと希少性から世界共通の価値が認められています。第二次世界大戦も終わりに近づいた1944年、当時、世界通貨とされていたイギリスのポンドにかわってアメリカドルが絶対的な力を持つことになる会議が、ニューハンプシャーのブレトンウッズで開かれました。そこで国際通貨基金(IMF)と国際復興開発銀行(IBRD)が創設されます。そして、各国通貨の流通量と金の全体量の割合で為替レートを決めていた金本位制から、金為替本位制に変更されました。金為替本位制とは、金1オンス=35ドルで固定することにより、ドルの価値を一定にするというものです。これがブレトンウッズ体制です。各国通貨も金ではなくドルに連動するようになります。日本の円は、当時1ドル=360円で固定されていました。

 ところがベトナム戦争をはじめとする軍事費の増大で、アメリカは大きな財政赤字を抱えます。金の保有量を遙かに超えるドルを発行し、金とドルとの交換を保証できなくなりました。当時の大統領ニクソンは、金為替本位制を廃止します。ドルの市場価値は暴落し、各国通貨は変動相場制へと変わっていきました。これがニクソン・ショックです。

 金為替本位制が廃止され、ポスト・ブレトンウッズ体制が続く中、それでもアメリカは金を大量に保有してきました。テロで崩れ落ちたワールドトレードセンターの地下には大量の金塊が保管されていたのです。幸い金は無事だったのですが、アメリカの財政赤字は無事では済みそうもありません。

 余談ですが、映画「ダイハード3」のなかで、テロリストを装った大泥棒たちの真のターゲットは、このワールドトレードセンターの地下に眠る金塊でした。




 ★ Websites

Coloma - California Ghost Town

 今ではほとんどゴーストタウンと化したコロマの街のスナップ写真が見られます。左側、下から3番目が、ジェームスがはじめて金塊を発見した水車場です。

Coloma Valley History

 マーシャル金発見州立史跡公園では、金塊発見にまつわる歴史資料や展示物のほか、実際に砂金探しを体験できます。


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2009/11/07(土) | 【エッセイ】 | トラックバック(0) | コメント(0)

【エッセイ#08】 「THE DRIVE」

 アメリカンフットボールのチャンピオンチームを決めるスーパーボウルはアメリカ最大のスポーツイベント。1988年度は、シンシナティー・ベンガルズとサンフランシスコ・49ersの対決だった。ベンガルズがフィールドゴールを決めて3点追加、16対13でリード。この時点で残り時間は3分20秒。

  ---ちょっと解説!---------------------------------------

 アメフトを知らないという方のために、最低限のルールを説明します。アメリカンフットボールは2つのチームが攻撃と守備に別れ、ボールを敵陣まで運んで得点を競うゲームです。お互いの陣地間の距離は100ヤード。攻撃チームはボールを持って走るか、投げてパスをするか、キックするかしてボールを進めていきます。パスを受け取り損なったり、ボールを持った選手がタックルされて倒されたりサイドラインの外に出たりしたら、そこで1回のプレーが終了です。攻撃チームが4回以内のプレーでボールを最低10ヤード前に運べなければ、攻撃権は相手チームに移ります。

 得点方法はタッチダウンとフィールドゴールの2種類。タッチダウンは、パスボールを相手陣地内で受け取るか、手に持って運び入れたときで、得点は6点。フィールドゴールはゴールポストにボールを蹴り入れたときで、3点が入ります。タッチダウンした後は、攻撃側は次に、2つのプレーのどちらかを選択することが出来ます。1つはキックでゴールを狙うプレーで、成功すれば1点追加され、もう1つは、再度タッチダウンを狙うプレーで、こちらは成功すれば2点が追加されます。ほとんどの場合、確実に点数が稼げるキックの方を選ぶので、タッチダウンすると実質7点入ることになります。

  ----------------------------------------------------

 続く49ersの攻撃は敵陣まで95ヤードの距離からのスタート。得点するにはフィールドのほぼ端から端まで進まなくてはならない。残り時間は3分10秒。勝負はほとんど決まったようなものだ。

 プレーが始まると、ボールを受け取る役割の選手が走り始める。彼らが作戦通りのコースを走れるように、敵を押さえ込む役割の選手もまた、それぞれ決められた動きを始める。そしてボールが投げられる。一連の動きには、前もって決められた300以上のパターンがある。プレー前の40秒間に、指令塔であるクォーターバック(QB)は次に取るべき作戦パターンを決め、ボールを投げるのだ。予定通りの動きができれば、選手は振り返ることなく走りながらQBからのパスボールを受け取る。アメフトは強い肉体と高い知力を必要とする緻密なスポーツなのだ。

 49ersのQB、ジョー・モンタナ(Joe Montana)は冷静だった。残り試合時間が残り少なくなっていく中、慎重にボールを進めていく。

 ペンシルバニア出身のジョーは、カレッジ・フットボールの名門、ノートルダム大学でQBとなった。チームを全米チャンピオンにまで導いた彼は、学生時代、7回の逆転劇を演じて有名になった。プロになってからも数々の伝説をつくり、その神憑ったプレーはモンタナ・マジックと呼ばれていた。

 しかし、この第23回スーパーボウルでは追いつめられていた。ジョーは正確なパスでボールをドライブしてきたが、残り1分15秒、チームは反則をとられ10ヤードの後退。敵陣まで45ヤードとされてしまった。ベンガルズのヘッドコーチ(監督)、サム・ワイチはほとんど勝利を確信していたが、以前49ersのコーチとしてジョーを育てた彼は、モンタナ・マジックの怖さもよく知っていたのだ。

 そして全米が固唾をのんで見守るなかプレーは淡々と続き、とうとう敵陣まであと10ヤードまできた。あと1プレーで敵陣まで届く距離だ。しかし残り時間は39秒。サム・ワイチの読みは、名レシーバー、ジェリー・ライスへのタッチダウン・パスだった。ジョーの狙いももちろんパスによるタッチダウンだ。そしてプレー開始。しかしジョーが放ったパスの先はジェリー・ライスではなく、ジョン・テイラーだった。タッチダウンのフォイッスルが鳴ったとき、残り時間は34秒だった。

 モンタナ・マジックを神の領域にまでしたこのゲームは、「THE MONTANA DRIVE」としてその後何度も語り継がれることになった。ジョーは翌年のスーパーボウルでデンバー・ブロンコスを大差で破り、4度目のスーパーボウル・チャンピオンとなり、「史上最高のQB」の名を手に入れたのだ。




「スーパーボウル」

 アメリカのスポーツ好きに「一番楽しみなスポーツイベントはなにか?」と質問すると、1/4の人が「スーパーボウル」と答えるそうです。その数は2位の「(野球の)ワールドシリーズ」の3倍にも及び、毎年の視聴率は40%を越えるのが常です。

 2月の初頭、前年のシーズンとプレイオフを勝ち抜いてきたAFCとNFCの両リーグの覇者が戦うスーパーボウル。仲間で集まってホームパーティを開いたり、スポーツカフェで観戦したりと、アメリカは国中お祭り騒ぎになります。試合当日の昼過ぎにはスーパーマーケットにずらりと並んでいたポテトチップスの棚はほとんどカラになり、道路の交通量は減り、宅配ピザの注文数と、試合を観に行った留守宅の空き巣事件が増える日です。

 経済的な影響も大変なもので、開催地には3~4億ドルもの経済効果があるそうです。ゲームの放映権を掴んだTV局は、破格の値段でCM枠を売りに出します。30秒の枠で300万ドル。参加する企業は有名な映画監督を使ってCMを作成。視聴者の投票によるランキングも行われます。




 ★ Website

NFL JAPAN ルール解説」 

 アメフトの基本ルールがわかります。試合の進め方やポジションの説明など。


Super Bowl XXIII "The Montana Drive



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2009/11/14(土) | 【エッセイ】 | トラックバック(0) | コメント(0)

【エッセイ#09】 「スタインベック」

 愛犬チャーリーを連れたアメリカ一周の旅は4ヶ月に及んだ。キャンピングカー「ロシナンテ号」の名は、ドン・キホーテの愛馬からとったものだ。この旅で彼は、自分の素性は明かさず、出会う人々と気さくに語り合うことにしていた。


 ジョン・スタインベック(John Steinbeck)はカリフォルニアの農場でアルバイトをしながらスタンフォード大学で海洋生物学を学び、やがて作家として創作活動をはじめました。彼はアメリカ合衆国とアメリカ人を深く愛した作家でした。アメリカの精神を愛し、アメリカの問題点さえも愛していました。

 彼は言います。

「滅びる国の国民は、現実に寛大であり、未来を拒絶し、過去の偉大さと栄光に満足している。(中略)。陶酔感が薄れて寛容となり、苦悩がやわらいで鈍痛となる」。

 こうして自国を批判した彼はまた、アメリカの若者たちがこのような状態に満足せず、怒りを覚えて世の中に反抗している姿に将来の希望を持っていました。ありあまるエネルギーは、たとえそれが怒りであってさえも、これこそが移民たち祖先の精神であり、たとえエネルギーの使い方がネガティブであっても、エネルギーが枯渇していることに比べれば、そんなことは大した問題ではないというのです。

われわれは時に失敗し、誤った道をとり、新しく継続するために立ち止まり、腹を満たし、傷口をなめた。しかし絶対にあと戻りはしなかった。絶対に

「アメリカとアメリカ人」 深沢俊雄 訳 スタインベック全集16 大阪教育図書


 チャーリーとのアメリカ一周旅行を始めたとき、スタインベックは58歳でした。

私は、自分の国を知っていないことに気がついた。アメリカ作家として、アメリカについて書きながらも、記憶を頼りに仕事をしてきたわけで、その記憶の水源地ときたら、いびつで間違いだらけ。私はアメリカの言葉を耳にせず、草と木とドブの匂いをかがず、丘と水を見ず、大気の色と光を目にしていなかった。ただ本と新聞から変遷を知ったにすぎない。それどころか、二五年間もアメリカに触れず、アメリカを感じていなかった。要するに、私は自分の知らないことを書いてきたのだ。ものを書く人間として、これは犯罪的行為にちがいない

「チャーリーとの旅」大前正臣訳、サイマル出版会

 これはアメリカを見直す旅でした。作家としての自分の現状に対する怒りであり、新たな挑戦でもあったのです。旅先で彼は様々な人たちと出会い、友達になっていきます。ノーベル文学賞を取る前でしたが、すでにアメリカを代表する作家であった彼は、素性を隠し、ひとりの旅人として人々と接しています。迷った振りをして道を聞き、それをきっかけに会話をかわしたり、わざとチャーリーを民家に放し、犬が迷惑をかけて申し訳ないとあやまりに入っていくなど、人との出会いのためのきっかけ作りにアタマをひねったそうです。

 こうした経験のなかから得られた知恵は、人は第一印象で判断してはいけないというものでした。

「見た目が無愛想な男でも、話してみると親切で実にいいヤツであることがある。自分のなかだけで人を決めつけてはいけない」。


 スタインベックは民衆が好きでした。だからアメリカの民衆を自分の目で確かめたかったのです。アメリカ独立宣言の中の「民衆」、リンカーン大統領が唱えた「民衆」。民衆こそが、本物の民主主義国家アメリカをつくったのだから。




「17 Miles Drive」

 サンフランシスコへ旅行にいったときにでも、ちょっと時間を作ってサリナスまで足をのばしてみてください。映画「エデンの東」で観たレタス畑が今でもそこに広がっています。主人公キャルを演じたジェームス・ディーンは、ここからハイウエイをさらに2時間ほど南に下たところで自動車事故を起こして亡くなりました。1955年9月30日のことです。いまでも道の脇に、彼の名前がかかれたモニュメントをみつけることができます。

 サリナスから海を目指してドライブを続けると、半島の付け根にモントレー(Monterey)があります。モントレー水族館のまわりの海では、いつもラッコやアザラシが気持ちよさそうに昼寝をしています。

 さらにパシフィックグローブ(Pacific Grove)を抜けアシロマー(Asilomar)に出ると、17 Mailes Driveの入り口があります。静かな住宅街と海沿いを走るこの有料道路は、ペブルビーチゴルフコース(Pebble Beach Golf Club)へと続きます。途中、クルマを停めて砂浜のボードウォークを散歩するのもいいでしょう。冷たい風が海の潮を巻き上げ、遠くの海岸線がかすんで見える砂浜を、朝夕には犬を連れた人たちがのんびりと散歩を楽しんでいます。

 半島の反対側にはカーメル(Carmel)があります。芸術家が多く住むこの街の急な坂道の両脇には、小さな画廊や土産物屋が並んでいます。坂を一番下まで下ると、そこは真っ白な砂浜。クリント・イーストウッドがかつて市長を務めたこの美しい町を、チャンスがあったらぜひ一度訪れてみてください。




 ★ Website

モントレー半島の生活・観光情報サイト

 モントレー周辺の観光ガイド。写真もたくさん見られます(「特集」と書いてあるプルダウンメニューの中のImage Tourにあります)。観光のモデルプランもあります。

 ★ DVD

エデンの東 [DVD]」 

 ジョン・スタインベック原作の映画「エデンの東」。
 主演:ジェームス・ディーン 監督:エリア・カザン



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2009/11/21(土) | 【エッセイ】 | トラックバック(0) | コメント(0)

【エッセイ#10】 「バーバンクの魔術師」

 1937年12月の特別上演パーティー。いままで映画館では場つなぎの短いお笑いでしかなかった単なる「動く漫画」から、アニメという新しいエンターテイメントが誕生しました。それぞれのキャラクターに個性を与え、スクリーン上の動きにあわせて音楽が演奏されます。タイトルは「白雪姫」(Snow White and the Seven Dwarfs)。まったく新しい娯楽文化の誕生です。その制作費は当初25万ドルを予定していましたが、プロデューサーであるウォルトの情熱が完璧を求め、妥協を許さない制作姿勢は最終的に150万ドル近くの費用を必要としました。もっとも「白雪姫」は、封切り後短期間のうちに8億ドルを超える収益を挙げることになったのですが・・・。


 ウォルター・イライアス・ディズニー(Walter Elias Disney)は1901年12月5日、シカゴに生まれました。17歳のとき赤十字に志願したウォルトは占領軍としてフランスに渡ります。彼の描くマンガ絵が仲間にウケ、帰国してからは漫画家になろうと決心しました。アニメ制作会社に就職したウォルトは、そこで天才的なアーティスト、アブ・アイワークス(Ub Iwerks)と出会います。やがてふたりは独立し、「シンデレラ」などのおとぎ話をコミカルにしたアニメ制作を始めたのです。しかし不運もあって会社は破綻。ハイウッドへ移り、ビジネスアドバイザーでもあった兄とともに新たな会社を設立しました。そこから生まれたウサギのキャラクター、オズワルド・ザ・ラッキー・ラビットが大人気。ところが仲間の裏切りから配給会社にキャラクターの商標を独占され、ウォルトは再び一からの出直しを余儀なくされました。

 この事件に落胆していた頃、彼は小さなネズミのスケッチを描き、モーティマー(Mortimer)と名付けましたが、「もっと親しみやすい名前がいいわ」と言ってウォルトの妻がつけた名前は、ミッキー(Mickey)でした。ウォルトはミッキーに個性を与え、相棒のアブ・アイワークスがキャラクターデザインをしました。

 意外なことに、その後大成功を納めたキャラクター「ミッキーマウス」が映画の主役として活躍したのは、長いディズニーの歴史の中のわずか25年間でした。スマートすぎるキャラクターはお笑いのための三枚目役者にはなれず、怒りん坊のドナルド・ダック、間抜けなグーフィ、そしてトラブルメーカーのプルートといったキャラが誕生、ディズニー・アニメの主役になっていきました。それでも人々を引きつける魅力はミッキーが一番。ウォルトは自らの成功を「全ては一匹のネズミから始まった」と後に語っています。

 ミッキーの成功をきっかけにディズニー社は大きく成長していきます。第二次世界大戦がはじまると、国のために利益を得ずに戦争のための広報映画に取り組む一方、「バンビ」や「ダンボ」などの長編アニメの制作も続けていました。しかし戦後は大きく方向転換し、会社の機動力の大部分を子供のための実写教育番組や自然をテーマにしたTV向けドキュメント番組の制作に向け始めます。さらには、「せっかくハリウッドを訪れた人たちが、なにも観るものがなかったと落胆して帰っていくのは悲しいことだ」と、巨大アミューズメントパークの建設へと視野を広げていきました。


 ウォルト・ディズニーとはどんな人物だったのでしょうか?彼の人となりについては意見が分かれます。「バーバンクの魔術師」、「20世紀のイソップ」などと賞賛する声があれば、「昔ながらの動画を消し去った破壊者」、「彼は作家ではない、実業家だ」という声もあります。一緒に働いた人たちはウォルトについて、とにかく複雑な人物だったと口を揃えて話しています。新しいものを生み出す独創性を持ち、完璧主義で、頑固で、冷淡な面がありました。そして、子供の頃に欲しかった蒸気機関車のおもちゃを自分にプレゼントして喜ぶような、無邪気な面もありました。ただ、金儲けのために仕事をこなすようなことはなかったようです。華やかなハリウッドのなかで、ウォルトは決して派手な人間ではなかったのです。




「Pixer」

 1986年、ジョージ・ルーカス率いる「ルーカスフィルム社」のCG部門をスティーブ・ジョブズ(Steve Jobs)が10億円で買収し、「Pixar社」を設立しました。正式名称は「Pixar Animation Studios」です。このときスティーブは、経営陣の謀反により自ら設立したアップルコンピュータ社を追い出されていました。当時のアップル社の社員たちは、スティーブについてこんなコメントを残しています。

 「ジョブズを罵倒したくなるような話は誰にでもある」
 「クリスマス休暇から戻ってきたらすぐに全員を解雇すると伝えたんだ」

 しかし一方では「彼は自分のやり方で会社を経営している。すべての人が賛成しているわけではないが、それがアップル社を存続させる唯一の方法なのだ」という意見もありました。高い目標と完璧主義、常識を越えた独創性から、スティーブはまわりの人々にきつくあたることがあったようです。

 アップル社はその後「あんな経営不振じゃ、まもなく倒産するだろう」と言われるほどに業績が低迷、追い出したはずのスティーブを呼び戻し、後に最高経営責任者として会社の再建を託します。スティーブは年収1ドルでこの話を受け、アップルの暫定経営責任者に就くことになります。

 「そもそも大金を稼ぐためにアップルに復帰したわけではない。私は25歳のとき純資産が1億ドルもあった人間だ。アップルに戻ったのは、自分のつくった会社が倒産の危機にあるときに、何かできることがあれば、と思ったからだ。実質無報酬でも戻って良かったと思っている

 アップル社に戻った後も、スティーブはPixerで働き続けました。毎年CGを使った数々のCM作品を制作・発表しながら業績を積み上げ、1995年、初めて全編CGによる長編アニメ「トイ・ストーリー」を成功させると、「バグズライフ」「モンスターズ・インク」「ファインディング・ニモ」と連続して大ヒットを出し続けています。これらの作品はすべてディズニー社との提携の元に制作が行われました。

 ところで スティーブ・ジョブズの人物像は、ウォルト・ディズニーのそれとよく似ていると思いませんか?


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2009/11/28(土) | 【エッセイ】 | トラックバック(0) | コメント(0)

【エッセイ#11】 「フラミンゴ」

 ラスベガスの老舗ホテル「フラミンゴ」を建てたベンジャミン・シーゲルを描いた映画「バグジー」を観たことがありますか?ニューヨークのマフィアで殺し屋、「虫けら(バグジー)」というニックネームで呼ばれていたベンジャミンは、ある日、仕事の依頼を受けにハリウッドを訪れます。そこで知り合った女優とラスベガスの小さなカジノを訪れたとき、目の前の広大な砂漠を前に、今までにない豪華ホテルを建てカジノビジネスをもっと大きなものにしようと思い立ちます。そしてマフィア仲間から資金を集め、理想のカジノ・ホテルの建設を始めました。

 現在のラスベガスは巨大ホテルが建ち並び、ギャンブラーだけではなく家族連れでも楽しめる、街全体が巨大なテーマパークです。ラスベガスがこのような繁栄を見せるようになったのはここ50年ほどのことで、第二次大戦が終わって「フラミンゴ」がオープンした頃にはちょっと大きめのモーテルが数件ある程度の小さな町でした。

 ラスベガスの目抜き通り「ストリップ」に立ち並ぶ巨大ホテル群の始まりと言われる「フラミンゴ」の誕生物語は、映画「バグジー」を通して有名になりました。ところがこの映画では存在がかき消されてしまっているある人物について知っている人は、あまり多くないでしょう。

 2000年1月に出版された「The Man Who Invented Las Vegas」は、ウイリー・ウィルカーソン3世(Willie.R.Wilkerson III)が、彼の父ビリー・ウィルカーソン(W.R. "Billy" Wilkerson)について書いた伝記です。この本のなかに、本当の「フラミンゴ」誕生物語があったのです。

 ハリウッドの映画界を扱った芸能情報誌「ザ・ハリウッド・レポーター」(The Hollywood Reporter)を発行していたビリー・ウィルカーソンはまた、映画俳優が多く集まることで知られるレストランも経営していました。しかし経営者、実業家としてよりはむしろ、ギャンブル好きで有名だったそうです。カリフォルニアで賭博追放運動が激しくなると、飛行機をチャーターして全米のカジノを遊び歩くほどの熱の入れようでした。ロサンゼルスからクルマで3時間ほど離れたリゾート地にアローヘッド・スプリングス・ホテルを建設して大成功させますが、そこで招待客だけを相手に違法だったカジノを運営、それが州政府にバレて御用になったこともあったそうです。

 ビリーの「合法的にカジノを運営したい」という夢はカリフォルニアを離れ、お隣のネバダ州ラスベガスに33エーカーの土地を買い取るところからはじまりました。街のメインストリート、ストリップには、すでにエル・ランチョ・ベガス、ラスト・フロンティアなどといったホテルがありましたが、ビリーにとってはどれもこれもちょっと大きめのモーテル程度しにか見えませんでした。

 「フラミンゴ」と名付けられた彼のプロジェクトは、それまでは誰も考えもつかなかったような巨大アミューズメントホテルの建設でした。250の客室を持つホテルには、カジノをはじめナイトクラブやバーラウンジ、レストランやショッピングモール、ジムなどを完備、野外プールやテニスコートも併設します。当初のビリーの計画には、射撃場やバトミントン、ハンドボールのコート、スカッシュ場、ゴルフ場もあったそうです。

 このプロジェクトのための見積もり費用は当時の価格で120万ドル。しかしギャンブル好きで知られるビリーには誰もが貸し渋ります。それでもなんとか必要額の半分ほどを銀行から、残りを友人から借りることができました。ところが第二次世界大戦の影響で資材の価格が高騰、建設費はあっというまに2倍に跳ね上がります。

 もうこれ以上の資金を集められなかったビリーは、やむなくラスベガスからの撤退を考えていました。そんなある日、フラミンゴ・ホテルの将来性に目を付けたマフィアのボスが資金提供に手を挙げます。ビリーの取り分は1/3に減ってしまいますが、プロジェクトは生き残りました。このときフラミンゴの運営に任命されたのが、バグジーことベンジャミン・シーゲルだったのです。この後の展開は映画「バグジー」にあるとおり。バグシーはプロジェクトの内容を勝手に変更して資金を横領。なんとかオープンしたホテルも赤字を出し、バグジーはマフィア仲間から狙われるはめになります。

 1946年にオープンしたフラミンゴ・ホテル。現在はフラミンゴラスベガスとして運営されています。新しい巨大ホテルの陰に隠れながらも、ラスベガスを代表する老舗ホテルであることにかわりはありません。




「ラスベガスから、日帰りドライブ」

 人工の不夜城だけがラスベガスじゃない!ちょっと足を延ばせば日本では考えられない大自然が広がっています。グランドキャニオンやモニュメント・バレー、フーバーダムはもうおなじみの観光スポットでしょう。そこでベガスの街から日帰りで行けるお勧めのスポットを2カ所、紹介します。スロットマシーンもショッピングモールもレストランもないけれど、どこかよその惑星に来たのではないかと錯覚するような砂漠のなかの大自然。レンタカーを借りて出かけてみて下さい。

「レッドロック・キャニオン」 http://www.redrockcanyonlv.org/

 ベガスの市内からクルマで約30分。どこまでも続く広大な砂漠のなか、真っ赤な岩や巨大な断層を望みながらのドライブが楽しめます。レッドロック・キャニオンを走るシーニック・ループ・ドライブ(SCENIC LOOP DRIVE)は一周13マイルの舗装された快適な道路。途中にクルマを停めてハイキングコースを歩くこともできます。ただし夏場は40度を超える砂漠地帯。ビジターセンターで地図をもらい飲料水も多めに持って、計画を立てて楽しんでください。

「デス・バレー」 http://www.nps.gov/deva/

 市内からは片道2時間のドライブになります。まず、クルマのガソリンは満タンにしておいてください。飲料水を多めにもって、できれば携帯電話もあれば心強いですね。あっ、繋がらないかも?でもデス・バレーは国立公園なのでレンジャーがクルマで見回りをしています。万が一クルマが故障しても、しばらく待てば助けを求められます。

 長野県ほどの広さをもつデス・バレーは、縦に200キロ、横80キロの長方形をしています。どこまでも続く砂漠、草も生えていない荒野。この風景は、西を目指してやってきた多くの開拓民の気力を奪い、命を奪ってきました。「なにもない」というものがどういうことなのか、いちど体験してみてはどうでしょうか?




 ★ Book

The Man Who Invented Las Vegas

 Willie.R.Wilkerson IIIによる、父、W.R. "Billy" Wilkersonの伝記。フラミンゴ・ホテルの本当の歴史物語が語られています。残念ながら邦訳はされていないようです。

 ★ DVD

 バグジー [DVD]

 映画「バグジー」がいよいよDVD化されました。
出演:ウォーレン・ビーティ,監督:バリー・レビンソン

 ★ Websites

「ラスベガス大全」 http://www.lvtaizen.com/

 日本語によるラスベガスの大百科サイト。ベガスで遊ぶための情報がぎっちり詰まっています。ベガスのホテルの特徴を一軒ずつ詳細に解説。日本語ツアーの申込みもできます。ベガスに行くなら絶対チェックです。


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2009/12/05(土) | 【エッセイ】 | トラックバック(0) | コメント(0)

【エッセイ#12】 「ラバ遣いが観た宇宙」

 ロサンゼルスの郊外、ウィルソン山にある天体観測ドームには1909年の開設当時には世界一の性能を誇った反射望遠鏡が納められています。さらに1917年に建設された口径257cmのフッカー反射望遠鏡は、その圧倒的な性能からアンドロメダ星雲までの距離の測定に使われました。このとき初めて、この明るい星雲が私たちの銀河の外、遙か彼方に位置していることが明らかになったのです。

 この望遠鏡のもう一つの大きな業績は、宇宙は今でも膨張し続けていることを明らかにしたことでした。そしてそれを発見したのはウィルソン天文台の建設当時、ラバ遣いとして建設資材を山の上に運んだ青年だったのです。


 ウィルソン天文台は山の上につくられた世界で最初の大型観測ドームでした。街の灯りが届かず、空気の澄んだ場所に天文台を建設するためには険しい山の上に多くの資材を運び上げなければなりません。整備された道路も大型トレーラーもなかった当時、望遠鏡の精密機械、大きく重量のある光学機器、そして天文学者たちを運んだのは足の強いラバでした。

 ラバの隊列を先導したのはミルトン・L・フマーソン(Milton Lasell Humason)。ミネソタ州に生まれた彼は、高校進学を自ら放棄するとカリフォルニアにやってきてラバ遣いになりました。いつもかみタバコをかみながらラバを引き連れていたミルトンは、とても頭が良く好奇心の旺盛な若者でした。ギャンブラーとしての腕もよく、ビリヤードの名手でかなりのプレイボーイだった彼は、それでもラバ遣い以上のものになろうとは考えませんでした。

 しかし根っからのめずらしもの好きのミルトンは、自分が山の上に運び上げたモノがいったいなんなのか知りたくて、いつも技術者を質問責めにしていました。やがてその技術者の娘と仲良くなった彼は、そのまま天文台で働くことを決意します。天文台の雑巾がけやガードマンとして働いていましたが、器用なミルトンは望遠鏡の操作も覚え、いつしか技術者の手伝いもするようになっていました。

 ある夜、技術者が「病気なので観測を代わってくれないか?」とミルトンに頼みました。そしてミルトンは器用に望遠鏡を操り見事な仕事をしたのです。これをきっかけに彼は天体望遠鏡操作員兼観測助手に就任したのです。

 そんなある日、ウィルソン天文台にエドウィン・P・ハッブル(Edwin Powell Hubble)がやってきました。現在、彼の名前はNASAの宇宙望遠鏡の名称にもなっているのでご存じでしょう。ハッブルは、シカゴ大学を卒業後イギリスに渡り、オックスフォード大学に留学、アメリカに戻ってからは弁護士として働いていたこともあるエリート。ミルトンとはまったく違う経歴の持ち主でしたが、天体望遠鏡の前で、ふたりは最高のコンビでした。

 ミルトンは遠く離れた銀河のスペクトル写真を撮り続けました。光を虹色に分解して写真に焼き付けるスペクトル写真を使えば、光を発している光源、つまり銀河が地球から観てどの方向に移動しているのかがわかります。ハッブルはミルトンの撮影した写真をもとに、すべての銀河が地球から遠ざかっていることを発見します。しかも遠い銀河ほど高速度で遠ざかっているのです。この発見から後に「ハッブルの法則」が生まれ、ビッグバンの発見に繋がります。

 ミルトンの撮るスペクトル写真は世界最高水準でした。彼の腕の良さはすぐに世界中に認められ、ウィルソン天文台の正規職員となります。物理学を学び、多くの価値ある観測を行い、それらが認められて1950年、スウェーデンのルンド大学から名誉博士号を受けます。その後、ウィルソン天文台をはじめパロマー天文台の天文学者に就任、世界の天文学者たちから尊敬されるようになりました。中卒のラバ遣いの青年は、世界的天文学者となったのです。




「JPL」

 木星や土星、遠くは冥王星を目指して飛んだボイジャー。火星に初めて着陸し、その地表の写真を送ってきたバイキング。これら無人惑星探査機はアメリカの航空宇宙局(NASA)により打ち上げられ、その後の飛行から惑星への接近もしくは着陸、観測などのコントロールは、すべてパサデナにあるジェット推進研究所(Jet Propulsion Laboratry:JPL)で行われています。最近では火星探査機オポチュニティやガリレオ木星探査機、カッシーニ土星探査機などのニュースでJPLの名前を聞いた方もいらっしゃるでしょう。

 1977年、太陽系の惑星を訪ねつつ遠く恒星間宇宙への旅に出たボイジャーには、多くの観測機器と一緒に人類の姿を描いたレコード盤が積まれていました。このレコードにはさまざまな言語によるあいさつの言葉と、地球を代表する音楽がいくつか記録されています。もちろん地球の位置を示した地図と、レコードの再生方法についても記号を使って説明されています。

 このレコードを積んだ目的はなんだったのでしょう?ボイジャーが太陽系を離れた後、他の惑星系を訪れる確率はほとんどゼロです。おそらくなにもない恒星間宇宙を漂い、数億年かけて銀河系を一周するだけです。途中、隕石に衝突して分解してしまうかもしれません。

 それでも高度な科学文明をもった異星人が、宇宙を漂う人工物を見つけて拾い上げるかもしれない。そんなとき、挨拶の一つもしておきたい。そんな願いから、わずかな積載重量が設計に大きく影響するにも関わらず、このレコードを積み込むことになりました。提案したのは当時の惑星探査チームのリーダーのひとり、コーネル大学のカール・セーガン博士でした。

 ボイジャーは数年前に冥王星の軌道を通過。そして「まだ生きてるよ」と地球に向けて信号を送ってきました。




★ Websites

 「Jet Propulsion Laboratry

 カリフォルニア工科大学にあるジェット推進研究所(JPL)のサイト。惑星探査の歴史や探査機から送られてきた写真も見られます。JPLは定期的に一般公開していますが、すべて予約制。予約は電話でしか受け付けておらず、しかも半年以上前からの予約が必要です。外国人の入場にはパスポートの提示を求められます。

★ Books

 惑星へ〈上〉
 惑星へ〈下〉
 (朝日文庫)


 惑星探査機ボイジャーとガリレオ。その観測結果をもとにカール・セーガンが太陽系の惑星を紹介します。上下巻あります。



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2009/12/12(土) | 【エッセイ】 | トラックバック(0) | コメント(0)

【エッセイ#13】 「What a Wonderful World」

 若い連中にね、ときどきこんなこと言われるんだ。

「ネェじいさん いったいこの世界の何処がワンダフルドなんだい?」

「戦争、飢え、環境破壊、とてもワンダフルとは言えないよ!?」

 ちょっと待ってくれ、私の話も聞いて欲しい。世界が悪いんではなくて、私達が世界にしていることが悪いんだ。あきらめないで努力さえすれば、世界はもっとワンダフルになる。秘密は、ラブ、愛さ!!もし私たちがもっともっとお互いを愛し合いさえすれば、多くの問題が解決する。そうなったら世界は最高。だから、私はいつも歌ってるのさ。

♪ "I see trees of green, red roses too・・・"♪

 ルイ・アームストロング(Louis Armstrong)の70歳を祝う誕生パーティの後に行われた録音で吹き込まれた "What a Wonderful World"。その前奏部分でルイが語った言葉です。

 今でも多くの人種差別問題を抱えるルイジアナ州。アジアの国である日本との文化や経済交流も少なく、観光で訪れる外国人も決して多くはありません。そんな中で唯一、音楽を通して世界的な観光都市になっているのがジャズの街、ニューオリンズです。

 1900年当時、あらゆる犯罪が絶えないニューオリンズの黒人街でしたが、そこでは音楽もまた決して絶えることはありませんでした。教会から聞こえてくるゴスペル、飲屋街に流れるブルース、そして陽気な葬式パレード。そんな中で育ったルイは、いつしか少年コーラス隊を結成してチップをもらうほどになっていました。

 しかしある新年のお祭りで騒ぎを起こしたルイは、警察に捕まり少年院送りとなります。爆竹やおもちゃの銃で新年を祝う子供達に混じって、あろうことか自宅で見つけた父親の本物の銃を発砲してしまったのです。

 ところが送り込まれた先の少年院、その中にある黒人少年ブラスバンドでルイはコルネットを担当することになります。これこそ彼のその後の運命を変える出会いでした。昔から憧れていたコルネット、それが少年院で手に入ったのです。

 1年半後に少年院を出たルイはすでにプロ並みの腕を持っていました。すぐに一流ミュージシャンから認められ、さまざまなバンドで演奏しながらその腕をめきめきと上げていったのです。

 ニューオリンズで生まれたと言われるジャズ。その音楽をシカゴ、ニューヨーク、ついにはヨーロッパやアフリカ、そして日本へと広めたのはルイのラッパと歌声でした。そしてルイの音楽は国境だけではなく、音楽ジャンルの壁も越えていきます。バーンスタイン指揮のニューヨーク・フィルとの競演「セントルイス・ブルース」は、クラシックとジャズの奇跡的な融合でした。

 過密スケジュールが身体に負担をかけ始めた70代。医者の忠告を無視して演奏旅行を続けたルイでしたが、ついに心臓発作を起こし、1971年7月6日、この世を去りました。


 あるファンが、ニューオリンズの地元誌にこんなコラムを寄せています。

 地元ニューオリンズにルイ・アームストロングがやってくるというから、借金して最前列の席を買ったんだ。目の前でルイが演奏するのを観たかったからね。演奏が始まってしばらくすると、客席から1人の老人がステージに向かって歩き始めた。ルイはその老人に気づくと、演奏を止めて、なぜか急に泣き出したんだ。

 老人はステージに上がると、脇に抱えていたボロボロのコルネットをルイに差し出した。それは少年院でルイが初めて手にしたコルネットだった。老人は、当時ルイにコルネットを教えた先生だったんだよ。ふたりは抱き合うと大きな声で泣きじゃくり、そして笑っていた。




「Jazz Funeral」

 Jazz Funeralとは、ニューオリンズの名物とも言えるジャズのお葬式「ジャズ葬」のことです。昔、貧しく生命保険や共済に入れなかった黒人たちは、自分たちだけの保険組織を作りチャリティーやボランティア活動を行っていました。組織員の誰かが死ぬと生命保険が支払われ、ジャズバンド付きの葬式を挙げてくれるのです。

 ジャズバンドはまず静かに賛美歌を演奏しながら、その音を聞きつけて集まってきた近所の子供達を引き連れて葬儀の行われている教会へと向かいます。そして式場に到着すると、今度は葬送行進曲を演奏し、棺が墓場へと運ばれていく列に続いて行進します。

 棺が埋められ葬式が終わると、バンドはいきなり陽気な音を鳴らし始めます。

 「辛い苦痛の人生を終えて、魂は今自由になった。みんなでそれを祝おう!」

 葬式帰りの人々は、野次馬も含めみんなで踊りながら街へと帰っていきます。バンドが演奏する「聖者の行進」に引きつけられて次々と人が集まり、時には数百人の行列になることさえあります。

 ルイ・アームストロングにとって、子供のころに「ジャズ葬」で演奏したのが一番の思い出でだったようです。当時、バンドのメンバーになるのは貧しかった子供達の一番の夢だったのです。




「おまけ」

 サッチモの愛称で知られるルイ・アームストロング。彼の奥さんが旅先で小さなクリスマスツリーを買ってサッチモにプレゼントしたところ、彼は子供のように喜んでいつまでも寝っ転がりながらキラキラ光るツリーを眺めていました。

 あんまり楽しそうなので「どうしてそんなにうれしいの?」と夫人が聞いてみると「だって、これはボクにとって初めてのクリスマスツリーなんだよ」と答えたそうです。子供の頃は本当に貧しかったのでしょうね。42歳で初めて手にしたクリスマスツリーに喜ぶサッチモ。もし気になったら、そんな彼の音楽をぜひ聴いてみてください。




★ Website

Satchmo.net

 「サッチモのことを知るためなら英語も苦にはならない」という方は必見のサイト。「英語を読むのはまっぴらゴメン」という方は、アーカイブの画像で楽しめます。

★ CD

What a Wonderful World

 ルイ・アームストロングって誰?という方、もしも興味があったら、まずはどこかで聴いたことのあるはずのこの曲をどうぞ。


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2009/12/19(土) | 【エッセイ】 | トラックバック(0) | コメント(0)

【エッセイ#14】 「Mickey D's」

 高校を中退したレイ・クロック(Ray Kroc)は、楽器店の経営、紙コップ会社のセールスマン、ラジオ局でのピアノ演奏、不動産屋、バンドでの巡業などといった職業を転々としながらビジネスチャンスを狙っていました。紙コップ会社でトップセールスマンにまで上り詰めたレイでしたが、ミルクシェイクをつくるためのマルチミキサーを発明すると、全米での販売権を手に独立します。36歳の時でした。しかし第二次世界大戦が始まるとミキサーに必要なモーターの製造がストップし、苦しい経営が続いていました。

 レイがミキサーの製造・販売で独立した2年前の1937年、パサデナに小さなドライブイン・レストランがオープンしました。その頃ドライブイン・レストランは西海岸でブームになりつつあり、この小さなレストランもその波に乗って大成功を納めます。3年後には新興住宅地のサンバーナディーノ(San Bernardino)に進出、店を経営していたマックとディック・マクドナルド兄弟は、街で屈指の金持ちとして知られるようになりました。

 しかしマクドナルド兄弟のレストランにも問題はありました。若いウェイトレスを目当てに若い連中が店にたむろし、家族連れの客に敬遠されがちでした。また、注文を待つためのクルマの列が駐車場に延び、もっと効率のいい経営が必要とされていたのです。

 そんなある日、マクドナルド兄弟は突然店を閉めてしまいます。そしてレストランの経営を見直しました。過去3年間の売り上げをみると、そのほとんどがハンバーガーでした。そこでハンバーガーを中心に調理システムの効率化を考えます。まずウェイトレスを解雇しセルフサービス方式を導入。メニューの数を半分以下に減らし、ハンバーガーのサイズを1割ほど小さくし、そのかわり値段を半額にまで下げました。さらに客からの注文をあらかじめ予想し、前もって調理を済ませておくことで30秒以内に客に商品を渡せるようにしました。また、友人のエンジニアに頼んで、一回押すと決まった量のケチャップがでてくる機械を考案するなどありとあらゆる効率化を進め、レストランを再びオープンさせるまでに3年も費やしたのです。そして店を再開させると売り上げは以前の4割も延びました。兄弟はこのレストランの経営システムを「スピーディ・サービス・システム」と名付け、フランチャイズとして売り出しました。


 ところでマルチミキサーを売っていたレイですが、ソフトクリームが流行る中、売り上げが思うようにあがらず悪戦苦闘の日々を送っていました。一件の店に売れるミキサーはせいぜい1,2台、それも一度売ったら10年は壊れずに動く製品でした。

 そんなある日、一度に8台ものミキサーを注文してくる店がありました。マクドナルド兄弟のハンバーガー店でした。レイは早速その店を訪れますが、駐車場に着いたとたんに驚かされました。昼時、店の前は客のクルマであふれかえり、カウンターには100人以上もの客の行列、そして店員たちは15秒ほどで1人の客をさばいていきます。さらに驚いたことに、客の3人に1人がミルクシェイクを注文していたのです。

 「こんな店がたくさんあったら、ミキサーが飛ぶように売れるに違いない」

 レイは店をチェーン店として全国に広げないかとマクドナルド兄弟に商談を持ちかけます。しかし兄弟は「今の生活に満足していること」と「事業拡大のための資金がないこと」を理由になかなかYESとは言いません。そこでレイは、自分が代理人としてチェーン店募集を行うこと、そして資金も調達してくることを条件に契約を結びました。レイ・クロック52歳の時です。

 レイはまずシカゴに加盟権販売会社「マクドナルド・システム」を設立、5年間で250件の加盟店を集めました。店にはどこも大きな黄色い「M」のマークを置き、マクドナルドは「Mickey D's」というニックネームで呼ばれるようになります。また、マクドナルドのフランチャイズ権を買って経営する店のひとつにサーカスのスポンサーがあったのですが、サーカス一座が解散するとそこのピエロ、ウィラード・スコット (Willard Scott) を「ロナルド・マクドナルド」 (Ronald McDonald) の愛称でマクドナルドのマスコットとして売り出したのです(日本ではドナルドと呼ばれています)。こうして子供を中心に、アメリカの家族向けハンバーガー・レストランが誕生したのです。

 ところでレイの成功で大金持ちになったマクドナルド兄弟は、もうこれ以上働くこともないだろうとマクドナルドの全権を270万ドルでレイに売ってしまいます。レイは投資家から集めたお金でマクドナルドを手に入れました。ちなみに、もしもマクドナルド兄弟が今でも権利を手放さずに持っていたら、毎年1億8000万ドルの収入になったそうです。




「Big Mac index」

 マクドナルドのあるフランチャイズ店でアルバイトとして働いていたフレッド・ターナー、やがて店の副社長となると、業務の効率化、マニュアル化に腕を振るい、その能力が認められて本社採用になります。そして1968年、レイ・クロックの後を引き継ぎマクドナルド・コーポレーションの社長に就任。これを境にマクドナルドは本格的な成長時代へと入りました。

 その2年後、マクドナルド日本1号店がオープン。西側諸国だけではなく、ロシアや中国にもフランチャイズを広げていきます。日本やアメリカではジャンクフードと呼ばれ、貧しい食べ物として嫌われがちなマクドナルドですが、ロシアや中国では生活のステイタスとして人気が出ました。

 ところで、マクドナルドの商品は世界中どこでもほとんど同じ品質が保たれています。ですからハンバーガーの値段は、それぞれの国の原材料費や光熱費、労働賃金などの違いで変わってきます。このことをうまく使って国の経済力を計る指標に、ビックマック指数(Big Mac index)というものがあります。

 イギリスの経済専門誌「エコノミスト」(The Economist)によって提唱されたこの指数、どうやって使うのでしょうか? 今、ビックマックが日本で250円だったとします。そしてアメリカでは2ドル。すると、250を2で割って125。つまりビックマック指数では1ドル125円ということになります。世界の為替市場とビックマック指数、あなたはどちらを信用しますか?




 ★ Website 

 「roadsideamerica.com

 ロードサイド・ドットコムという、ハイウェイ沿いにあるミュージアムや記念館を紹介したサイト。レイ・クロックによるマクドナルド1号店、その原寸(!?)サイズのレプリカの写真があります。


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2010/01/09(土) | 【エッセイ】 | トラックバック(0) | コメント(0)

【エッセイ#15】 「世界の始まり」

 神はトウモロコシから最初の男と最初の女を創った。

 第一の世界に最初の男と最初の女、そして創世者でありペテン師でもあるコヨーテがいた。第一の世界は狭くて暗いので、第二の世界へと脱出する事にした。

 第二の世界には、太陽と月と東西南北があった。東は黒く、西は黄色、南は青く、北は白かった。時々、黒さが強まり、世界を闇にし、また時々、その他の色彩が強まり、世界を昼間にしていた。太陽は「最初の女」を好きになったが彼女は受け入れず、太陽と争いになった。コヨーテが仲裁にはいり、東西南北も加わって話し合った結果、第二の世界も狭いので、太陽と最初の女が離れて暮せるように、第三の世界へと上る事にした。

 第三の世界には4つの山と湖があり、ティーホルツォディという水の怪物が住んでいた。ある日コヨーテがティーホルツォディの二人の子供をさらってしまった。ティーホルツォディは激怒し、世界を水でいっぱいにした。慌てた人間は3つの山を一つの山の上に積み重ね、山の頂上に葦(あし)の種を植えた。葦は成長し、第四の世界まで伸びた。すべてのものは葦を登った。

 第四の世界には4つの山と3つの光があった。大きな川も流れていた。川よりも北には人々が住み、南には動物が住んでいた。時間の流れが速く、一日が一年の世界だった。男と女は仲良く暮していたが、あるとき言い争いが起こった。しかし女は、女だけでは楽しくないと思い始めた。しかし男は、男だけでは楽しくないと思い始めた。男と女は互いに補っていかないといけないと気付いた。しかし、人々は新たな禍に巻き込まれる事になった。コヨーテが第四の世界にティーホルツォディーの子供を連れてきたのだ。ティーホルツォディーは第四の世界も水に沈めてしまった。人間は4つの山を積み重ね、その頂上に葦を植えた。葦は雲を突き抜けて、やがて第五の世界の底にあたった。



 アメリカインディアン、ナバホ族(Navajo)の創世神話の出だしです。彼らの創世神話は4つの聖なる山に囲まれた世界の中で繰り広げられます。その中に光があり、闇があります。東西南北があり、誕生と死があります。すべての生き物が存在しています。彼らの世界は、閉じた限られた世界です。インディアンはそこで自然の精霊と語り合いながら暮らしているのです。

 彼らの神話には原典というものはありません。物語は口承で伝えられてきました。語る人の解釈の違い、話を面白くするためのたとえ話が加わり、神話はいつしか長く波乱に富んだ長編ドラマになっていったのです。

 「第四の世界」の物語では、このあとアナグマが登場。さらには度胸試しで白鳥に勝ったバッタのおかげで、みんなは「第五の世界」に入ることができるのですが、やがてそこも水没していきます。そしてとうとうコヨーテがティーホルツォディーの子供をさらった事が発覚、ティーホルツォディーの子供たちを返すことで「第五の世界」は水没を免れます。この「第五の世界」とは、現在、私たちがいるこの世界のことです。


 第五の世界は暗闇だったが、東の闇の神に祈ると光を与えてくれた。水の引いた大地はまだぬかるんでいたが、東西南北の風に祈ると4日間強風が吹き、大地を乾かした。人々は土を練って積上げ、また4つの山をつくった。そして太陽と月を空に放り投げた。大酋長の妻が生け贄となって、太陽は規則正しく順行するようになった。人々はこのとき初めて、死という概念を理解した。


 もちろん物語はこのあとも続きます。最初の男と女、そしてコヨーテは空に星を散りばめ、三日月や半月も創ります。時間の概念ができ、四季が生まれます。そして巨人や人食いカモシカ、人食い鷲、さらには目から怪光線を放つ怪物が現れ、人類は滅亡します。そして再び最初の男と最初の女が創られ、ナバホ族の先祖になったのです。




「Native American」

 1492年、コロンブスがアメリカ大陸に到達したとき、彼はとうとうアジア大陸(インディアス)にたどり着いたと信じ込みました。ですから、そこに暮らす人々をインディアスに住む民、インディアンと呼んだのです。

 当時、およそ200万人のインディアンがいたと推測されています。話す言語も500以上と言われていますから、少なくともそれ以上の部族があったことになります。もちろん、北アメリカ大陸だけで相当広いわけですから、いくつもの部族(=国)があるのはあたりまえのことですね。

 白人が大陸にやってきた頃、インディアンたちはお互いの部族をすべて知っていたわけではありません。ですから、一致団結して「侵入者」と戦うというわけにはいかなかったようです。

 その後、白人との戦争やヨーロッパから持ち込まれた伝染病などにより、200年間のうちに人口は1/10にまで減少してしまいます。そして現在、アメリカ国内で純血を保つインディアンは250万人以下、全人口の0.9%ほどです。そしてその1/3ほどの人々が、リザベイション(reservation)と呼ばれるインディアン特別居留地で生活しています。

 もともと誤解から決められたインディアンという呼び名、差別的な意味もあり今ではネイティブ・アメリカン、もしくはアメリカン・インディアンと呼ばれるようになりました。それでも彼ら自身、自らをインディアンと呼ぶ人もめずらしくはありません。侵略と差別の歴史を持つ、彼らの誇りなのかもしれません。




★ Websites

Monument Valley Navajo Tribal Park

 山田和宏さんのウェブサイトから。不思議なモニュメントバレーの景色をお楽しみ下さい。


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2010/01/16(土) | 【エッセイ】 | トラックバック(0) | コメント(0)

【エッセイ#16】 「リーディング」

 エドガー・ケイシー(Edgar Cayce)という名前を聞いたことがありますか?1877年、ケンタッキーの農家に生まれたエドガーは、内気でいつも聖書ばかり読んでいる少年でした。学校は当時9年間だった義務教育しか受けておらず、それよりもイエスの生き方に感銘を受け、将来は病気で苦しんでいる人を助ける仕事をしたいと望んでいたのです。自宅裏の森の中に特別な場所を決め、毎朝、日の出と共にそこで聖書を読むことを日課としていました。そして毎年一回は聖書を通して読むことを信条としていました。

 そんなエドガー少年の元に神からの使いが現れたのは、彼が13歳のとき、朝いつものように森で聖書を読み終えた帰り道でのことでした。自分の名前を呼ぶ声に振り返ると、光に包まれた女性が立っていました。

 「あなたの一番の願いを言ってみなさい」

 エドガーは驚きながらも、毎朝祈り続けていた言葉「病気の人を癒やし、苦しんでいる人を救いたい」と答えました。女性は微笑むと「あなたの願いは聞き届けられました。いつまでもその気持ちを持ち続けなさい。そうすれば願いは叶えられます」と言って姿を消したのです。

 そして彼が15歳の時、最初の奇跡が起こりました。学校で野球をしていた時ボールが尾てい骨に当たり、エドガーは転倒してしまいます。その時はなんでもなかったのですが、午後になると突然、大きな声で笑いながら騒ぎ出したのです。彼の父親はエドガーをベットに縛りつけ、なんとか寝かしつけました。

 すぐにエドガーは昏睡状態に陥りました。そして突然、威厳のある声でしゃべりだしたのです。

 「ボールが当たったショックから救い出すために、薬草を後頭部に貼りなさい。取り返しのつかない障害を残したくないなら、今すぐ言った通りにしなさい!」

 両親は声の通りにエドガーの頭に薬草をあてがいました。すると翌朝、エドガーは何事もなかったかのように元気になっていました。

 医者か牧師になることを願っていたエドガーでしたが、経済的な理由で働きに出ねばならず、農家や書店、靴屋などで働いていました。そんなある日、エドガーは原因不明の失声症になります。声が出なくなってしまったのです。どんな医者も彼を治すことはできませんでした。職に就くことをあきらめたエドガーは、実家に戻って自ら写真店を経営することにしました。

 声のことはあきらめかけていたちょうどその頃、エドガーが15歳の頃、昏睡状態で自分の治療法をしゃべったという話を聞いた催眠療法士がやってきて、催眠状態で本人から声の治療法を得られるのではないだろうか?と提案しました。

 さっそく実験が行われました。エドガーは深い催眠状態に入ると「声帯の筋肉の一部が麻痺している。暗示によって、この部位の血流を増加させ、麻痺を取れば声は出るようになる」と話しました。催眠療法士は言われたとおりに暗示を与えると、喉の血流はみるみるまに増加し、喉が腫れ上がるほどになりました。催眠からさめたエドガーには1年ぶりに声が戻っていました。

 この不思議な能力は、他人の病気の治療法を得るためにも使われるようになります。彼自身、催眠状態で話した内容を覚えていなかったので、自分が話す内容をすべて記録にとるよう頼みました。彼の知るはずもない医療の専門用語で病気を診断し、適切な治療法が語られ、記録されていきました。これが後に「エドガー・ケイシーのリーディング」と呼ばれるようになったのです。

 エドガーの元には不治の病を抱えた人たちがリーディングを求めて集まりました。「病気の人を癒やし、苦しんでいる人を救いたい」という願いが叶ったのです。そして67歳でこの世を去るまでに9000件近くの医療リーディングを残しています。

 エドガー・ケイシーのリーディングは医療だけではなく、人生相談や夢占い、未来の予言や、ビジネスに関するアドバイスにまで広がってゆきました。生涯に残したリーディングの総数は15000件近くに及びます。アメリカやイギリスを始め、日本のさまざまな団体が彼のリーディングをまとめて人々の役に立つようデータベースとして管理・運営しています。




「リンゴ・ダイエット」

 エドガー・ケイシーはそのリーディングのなかで、多くの人にも役立つ健康法を残しています。健康法の原則には「体液の循環」「食物の消化吸収」「休息・休眠」「排泄」の4つが挙げられ、エドガーは特に「排泄」を重視していたそうです。体内にたまった毒素、老廃物を排泄するために、ひまし油温熱パック、リンゴ・ダイエット、コロニクス(洗腸)などがあります。

 今日は、このなかから簡単に実践できるリンゴ・ダイエットの方法を紹介します。腸の壁面に残った宿便をきれいに取り除くための健康法です。

 リンゴ・ダイエットという名前の通り、ひたすらリンゴだけを食べて過ごします。期間は3日間。リンゴ以外のものは食べずに、そのかわり水分補給はしっかりするようにします。もちろんジュースやビールはダメで、水を飲みます。ただし、コーヒーだけは1日に数杯飲んでもいいそうです。あっ、でも砂糖やクリームはなしですよ。そして毎晩、夜寝る前にエクストラ・バージンのオリーブオイルをスプーンに1杯飲みます。もしくは3日目の夜だけ3杯飲んでもかまいません。
 
 リンゴの繊維によって、腸壁の老廃物がきれいに排泄されるようになります。




★ Websites

 「日本エドガー・ケイシーセンター

 バージニア州にあるエドガー・ケイシー財団から正式な認可を受けた日本のエドガー・ケイシー研究センターです。情報提供と研究支援を目的としたNPOです。エドガー・ケイシーをもっと知りたいという方、まずはここからどうぞ。


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2010/01/23(土) | 【エッセイ】 | トラックバック(0) | コメント(0)

【エッセイ#17】 「MEN IN BLACK」

Roswell Daily Record for Tuesday, July 8, 1947.

RAAF Captures Flying Saucer On Ranch in Roswell Region. No Details of Flying Disk Are Revealed. Roswell Hardware Man and Wife Report Disk Seen.

 1947年7月8日火曜日の地元新聞「Roswell Daily Record」に掲載されたある記事の見出し。

「陸軍航空隊がロズウェル地区で空飛ぶ円盤を捕獲、円盤の詳細は不明。金物屋の夫婦が円盤を目撃」

 UFO好きにはあまりにも有名なロズウェル事件の始まりです。

 ニューメキシコ州ロズウェルにある陸軍航空基地の北西120キロの牧草地帯に何かが墜落。軍は、墜落したのは「空飛ぶ円盤」で、機体の残骸と宇宙人と思われる死体を4体回収、詳しい調査のために上部機関に輸送されたとマスコミを通して発表しました。目撃者もいました。ウィルモット夫妻です。

 「先週の水曜日の夜10時頃、家の前のポーチに座っていたら、南東の方から光る大きなものがものすごいスピードで飛んできた。それは1500フィートくらいの高さで、時速500マイルくらいのスピード、大きさは、直径だいたい20フィートくらいの円盤だった。もちろん、目測っていうか、そのくらいだろうってことだ。4~50秒で、北西の方へ飛んでいったよ」。

 ニュースはロズウェルの地元新聞「Roswell Daily Record」に載りましたが、その翌日、軍はこのニュースを否定。墜落したのは気象観測用の気球だったと訂正しました。そして政府の人間だと思われる黒服の男たち(Men In Black)が町に現れ、今回の事件について見たこと、聞いたことは誰にも話さないよう、人々を脅したのです。

 じつはロズウェルになにかが墜落したちょうど同じ頃、西に約220マイル、サン・オースティン平原(San Agustin Plains)のマグダネラ(Magdalena)という町でも、なにかが墜落したという報告があったのです。ジェラルド・アンダーソン(Gerald Anderson)は当時5歳でしたが、その時のことを良く覚えていました。1990年に行われたインタビューの中の証言です。

 「父さんとおじさん、それに従兄弟とボクの兄弟で、地面にへんな角度で突き刺さっている銀色の物体を見つけたんだ。その近くには4人の宇宙人がいて、そのうち2人はまだ生きていたんだ。無傷だった宇宙人が、円盤が事故で墜落したと言ってきた。言葉じゃなくて、テレパシーでそう言ったんだ。ボクたちのほかにも考古学の調査に来ていた学生が見ているよ。たくさんの軍人が来ていて、墜落した円盤の残骸と宇宙人を連れて行った。黒服の男も一緒だった」。

 その後、アンダーソン一家の行方は明らかにされていません。ロズウェルとサン・オースティンの両方の墜落現場に現れたマセール少佐(Major Marcel)は墜落した残骸をヒューストンのフォートワース基地に運んだ指揮官でしたが、軍の上層部が「あれは観測用の気球だった」と発表してからは、事件についてなにも言わなくなったそうです。彼はすでに亡くなっていますが、彼の息子が当時のことをこう証言しています。

 「父は、夜中にとても興奮して家に帰ってきました。そして墜落現場で拾ったという、アルミホイルのような金属の切れ端を見せてくれました。それは手で握るとくちゃくちゃに丸まるのですが、手を離すと元のようにしわひとつなく広がるのです」。

 この不思議な金属も、その後、軍に没収されてしまったそうです。なにが起こったのかを証明する決定的な証拠はなにもありません。そして根も葉もない噂が飛び交いました。回収された宇宙人の死体の写真や手術の様子を撮影したビデオ、UFOについてのMJ-12と呼ばれる政府調査団からの報告書などなど。

 しかし、少なくともこれだけは確かなことのようです。1947年7月になにかがニューメキシコの2つの町に落ちたこと。そして、誰かが嘘をついていること・・・。




「月の分譲地」

 夜空に浮かぶあの「月」の所有者はいったい誰なのか? 地球の外の法律には「宇宙条約」なるものがあるそうで、それによると、宇宙の天体を国家が所有することはできないそうです。月や火星に星条旗を立てても、アメリカに所有権はないということですね。

 ところがデニス・ホープさんという方、この法律には個人が所有してはならないとは書いてないじゃないか!?と言い出しました。そこでサンフランシスコの行政機関に所有権を求めたところ、これが正式に受理されたそうです。ところでサンフランシスコの行政機関に月の所有権を扱う権利はあるのでしょうかねぇ?一応、サンフランシスコだけではなく、合衆国政府にもお伺いをたてています。

 しかし、さすがの(?)アメリカ人も、これはアメリカ国内で認められただけでは話にならないだろうと思ったのか、旧ソ連や国連にも月の土地の権利宣言を行っています。誰からも文句がでなかったので、月の土地を分譲販売することにしました。う~ん・・・・

 デニスさんはLunarEmbassy社を設立すると、「月の土地」の権利書を売り出しました。1エーカー約2500円で買えるそうです。最近では同様に、火星の土地や金星の土地の分譲もはじめました。「あなたの名前が刻まれたネームプレートを月まで運びます」なんていうサービスもあるようです。費用は$15。

 月は自然の産物ですが、土地の所有権やそれを扱う法律は人間がつくったものです。法律は変更されるというリスクはいつもついてきます。地球上の土地ですら、完全に個人が所有することはできないのですから・・・。試しに固定資産税をしばらく滞納してみてください。あなたの土地は国に没収されます。

 ちなみに、月や火星、金星の土地を持っても、税金はとられないそうです。




★ Websites

International UFO Museum & Reserach Center

 ロズウェルにあるUFO博物館。墜落当時の写真や新聞記事が展示されています。ギフトショップには、かわいい(?)宇宙人グッズがたくさんあります。売り上げ利益はすべてUFO博物館の研究活動費にあてられています。ウェブでは、館内のバーチャル見学ツアーもあります。


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2010/01/30(土) | 【エッセイ】 | トラックバック(0) | コメント(0)

【エッセイ#18】 「大統領への手紙」

 SF作家、H.G.ウェルズの小説「解放された世界」のなかで、原子核物理学者が人工放射能を発見します。やがてこの発見をもとに人類は原子爆弾を発目し、核戦争が勃発するというストーリーの未来小説です。

 ハンガリー生まれの物理学者レオ・シラード(Leo Szilard)は、ある日、原子エネルギーの解放について想いを巡らせながら通りを歩いているうちに、この小説のことを思い出しました。そして、交差点の信号が青に変わった瞬間、核連鎖反応というアイデアを思いついたのです。

 ウランの原子核に十分な速度で中性子をひとつぶつけてやると、原子核は分裂し、そこから新たに中性子が2つ飛び出します。この2つの中性子がそれぞれ別の原子核にぶつかり、さらに4つの中性子が飛び出します。このように、高密度ウランに中性子をひとつぶつけるだけで、取り出されるエネルギーは連鎖反応と共に増大していきます。レオ・シラードは、この核連鎖反応のアイデアが小説の中の原子爆弾を現実のものにするでだろうことにすぐ気づきました。

 当時、ナチスはチェコスロバキアを占領、そしてチェコで豊富に産出されるウランの輸出を禁止します。そしてドイツの物理学者オットー・ハーンは核分裂の実験に成功していました。ナチスによる原子爆弾の開発が、現実の恐怖になったのです。

 1939年7月15日、レオ・シラードはロングアイランドにある、アルバート・アインシュタインの別荘を訪れました。そして核連鎖反応が現実に可能であることを伝え、ナチスよりも先に原子爆弾を開発するよう、当時の大統領ルーズベルトへ手紙を書くように頼んだのです。実際、手紙はシラードによって書かれ、アインシュタインはそこに署名をしただけでした。大統領への意見書に、アインシュタインの名声が必要だったのです。

 手紙を受け取ったルーズベルト大統領は、まず「ウラン顧問委員会」を発足。原子爆弾の開発を始めますが、政府からの研究費はわずかで、プロジェクトは思うように進みませんでした。そこでシラードとアインシュタインは再び大統領に手紙を書きます。ドイツではすでに優秀な物理学者のもとに原爆開発が進んでいると、脅しをかけたのです。

 そして1942年、マンハッタン計画がスタートします。すぐにシラードの核連鎖反応が実験で証明されると、研究の本拠地をニューメキシコのロスアラモスに移し、本格的な原子爆弾の開発開始しました。

 研究所では、世界中からアメリカに亡命してきた優秀な物理学者が働いていました。外界からは隔離された研究所では、秘密を守るために人々はお互いを仮名で呼び合うほどでした。研究者はそれぞれの専門分野に特化した研究だけを行い、プロジェクトの全体像をすべて知っていたのは、リーダーのオッペンハイマーを中心とした少数の者だけでした。

 ところで、ナチスの研究者たちは原子爆弾をどこまで開発していたのでしょうか?ナチスの原子爆弾開発状況を調査するアメリカの「アルソス」という秘密調査団は、1945年にようやくドイツ国内に潜入できるようになりました。そしてわかったことは、ドイツの科学者はウラン濃縮の初歩的な段階にしか達していないこと。そして、原子爆弾の開発そのものをすでに中止していたことでした。

 やがて連合軍はドイツの主要都市に攻め込み、ナチスは降伏します。この時点でアメリカには原子爆弾を開発する必要はなくなっていました。しかし研究は続けられ、テネシーのオークリッジではウラン濃縮が、ワシントンのハンフォードではプルトニウムの生産が24時間体制で行われていました。そして1945年7月16日、人類初の原爆実験がニューメキシコの砂漠で行われたのです。

 原爆が巻き起こすであろう世界的な恐怖を感じたシラードは、再びアインシュタインを訪れます。そして原爆の驚異を知らせ、核兵器の扱いに関する世界的な管理法の制定を提案するために、大統領への面会を求めた手紙を書きました。しかしこの手紙は、ルーズベルトの死後、大統領事務所で発見されました。シラードとアインシュタインの最後の手紙は、大統領へは届かなかったのです。




「バルーンフィェスタ」

 熱い空気が上昇する力を利用した熱気球、最初に発明されたのは1783年でしたが、当時は熱に強く軽い素材がなく、なかなか普及しませんでした。ちなみに、熱気球を発明したのはフランスのモンゴルフィエ兄弟。紙を使って作ったそうです。

 第二次世界大戦が終わると化学繊維とプロパンガスが普及し、1960年にようやく本格的な熱気球が考案されました。巨大な風船の下からガスバーナーで熱を送り込み上昇すると、あとはどこへ行くにも風まかせという乗り物です。単純な仕組みの割りに素材が難しかったのでしょう。飛行機より、その歴史は浅いことになります。

 毎年10月になると、ニューメキシコ州アルバカーキでは500を越える熱気球が集まるバルーンフィェスタが行われます。広く平らな大地と、秋に吹く上昇気流と、熱気球に最適な条件がそろっています。ブタやブーツ、牛のカタチをしたバルーンもお目見え、見ているだけで楽しめる大会になりました。

 ところで、熱気球を使った競技が何種類かあるのをご存じですか?

 もっともポピュラーなのが「うさぎ狩り」(Hare and Hound)と呼ばれる競技です。2機の気球を使います。まず1機目が離陸、そのあとをチャレンジャーの気球が追いかけます。別に追い越してもかまわないのですが、最初の気球から離れないようにしなければなりません。そして1時間後に最初の気球は好きなところに着陸し、着陸地点の周辺に×印を置きます。追いかけてきたチャレンジャーの気球はその×印めがけてマーカーを落とし、どれだけ目標近くに落とせたかを競います。




★ Website

Albuquerque Balloon Fiesta

 アルバカーキのバルーンフィェスタ。Galleryでは色とりどりの気球の写真が楽しめます。


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2010/02/06(土) | 【エッセイ】 | トラックバック(0) | コメント(0)

【エッセイ#19】 「空」

 ニューヨーク育ちのアルフレッド・スティーグリッツ(Alfred Stieglitz)は、当時アメリカでは単なる記録媒体でしかなかった写真をアートの表現手法として啓蒙しました。ヨーロッパではフォーカスを甘くした絵画風の写真が主流でしたが、アルフレッドはあくまでストレートな写真による表現を貫きました。その代わり雨や霧の中で撮影し、独特の世界を演出したのです。

 こうしてアメリカにおける写真アートの第一人者となったアルフレッド、1905年にはニューヨークの5番街291番地に、世界最初の写真ギャラリーのひとつとして知られる「スタジオ291」をオープンしています。そこで彼は、新しい芸術家の発掘に力を入れ、多くの若手を育てていました。アメリカの女流画家ジョージア・オキーフ(Georgia O'Keeffe)も「スタジオ291」から名声をあげた芸術家のひとりです。

 ウィスコンシンの農家に生まれたジョージアは、ヴァージニアとウィスコンシンのいくつかの学校で芸術を学んだ後、テキサスの大学で教師を務めるようになります。当時のアメリカで画家として認められるためには、ヨーロッパで学ぶことが必要条件とされていました。ですから自己流で絵を描き続けたジョージアがかりに才能にあふれていたとしても、画家として生きていくことは簡単なことではありませんでした。しかし美術の講師としての自分の人生に疑問をもったジョージアは、ある日こう決心してニューヨークに向かいます。

 「少なくとも私は描きたい絵を描き、言いたいことを言う」。
 「さもなければ、私は大バカ者だ」。

 そしてジョージアは「スタジオ291」でアルフレッドと出会うことになります。すでに世界的な写真家として知られていたアルフレッドは、ジョージアの絵に衝撃を受けました。そしてジョージアもまた、アルフレッドの感性に感化され、自らの作品を豊かにしていきました。ふたりは手紙を交わす間柄となり、やがて結婚します。

 雑多な都会暮らしの中で、ジョージアはいままで誰も見たことのない絵を描きました。それは大きな花の絵でした。巨大な花芯、キャンバスからはみ出る花びら。忙しく街を行き交うニューヨーカーたちも、本来は掌ほどの花が異常なほど大きく描かれている彼女の絵を目にし、思わず足を止めるほどでした。

 「(彼女の絵を見ていると)まるで自分が蝶になったかのように感じる」。

 ジョージアが巨大な花を描いたのは、忙しく生活する都会の人々に花を愛でるときの静かで深い安らぎを伝えたいと思ったからでした。しかし普通に描いたのでは誰の目にも留まらない。だから彼女は、うんと大きく描いたのです。そしてその目論見は成功しました。「花」の成功により、ジョージアは画家として認められるようになったのです。

 ジョージアより24歳年上のアルフレッド。年齢差や価値観の違い、芸術に対する姿勢の違いこそあったものの、ふたりは信頼しあっていました。しかしアルフレッドがニューヨークに腰を落ち着けて作品を作るタイプであったのに対し、ジョージアは気の向くままに旅をして、何ヶ月も家に帰らないこともありました。そして30歳のある日、ニューメキシコの荒野が彼女の心をとらえました。ニューヨークとニューメキシコを行き来する生活、やがてゴーストランチに家を買い、より多くの時間をそこで過ごすようになります。彼女が心を惹かれたもの、それは「骨」でした。砂漠に散在している動物の骨。それを持ち帰り、家に飾っていたのです。ジョージアは骨についてこう語っています。

 「美しさにも関わらず、ひとかけらの優しさももちあわせぬ砂漠。骨は、そんな砂漠の中で生命力に輝いている」。

 アルフレッドの死後、ジョージアはアメリカ芸術文学アカデミーに選任され、ますます画家としての人気を得ていきます。しかし62歳の時、全てを捨ててゴーストランチに移り住みました。そして98歳でこの世を去るまでの最後の10年間をサンタ・フェ(Santa Fe)の街で暮らしたのです。年老いて目に病を持ち、絵を描くことをやめた後も彼女が最後まで追い続けていたのは空でした。空の色とカタチを探していたのです。

「私の青い空。まだ誰も来たことのないとても遠いところ。ここでは自分自身であることがすべてだった」
  ー ジョージア・オキーフ




「頭骨と空」

 彼女の人生の後半部分をもう少しだけ紹介します。

 ジョージア・オキーフを名のある芸術家にしたのは巨大な花の絵でした。それらはニューヨークで描かれたものですが、彼女の心の中では荒野の美しさがいつも彼女を呼んでいたようです。彼女自身、子供の頃から心の中の声が「遠いところから、いつもわたしを呼んでいた」と言っています。

 彼女の後期の作品は、荒野と動物の頭骨、そして花が描かれています。ある日ジョージアはバラの造花を手に物思いにふけっていました。すると呼び鈴の音がしたので、テーブルの上にあった馬の頭骨の目の部分にバラをさし、席を立ちました。そして部屋に戻ってきた彼女は、頭骨とバラの組み合わせを見て「これこそ私が描きたかったもの」だと気づいたのです。

 こうしてただ拾い集めていただけの動物の骨が、彼女の絵のモチーフになったのです。荒野の風景、空に浮かぶ頭骨と小さな花。ジョージア・オキーフの新たな世界が始まりました。

 「骨盤を描き始めたとき、私は骨の穴に一番興味があったのです。その穴を通して見たもの、とりわけ自分の生きている世界で地面よりも空の方が広いことを感じたいときにするように、空に向かって太陽にその骨をかざした隙間から見える青に。骨たちは、人類が滅亡してからも今と変わらずそこに存在する青、そのような青を背にするときが一番すばらしいのです」(*)

 彼女は骨を通して空をみていたのです。

 本当のことを言うと、ジョージア・オキーフの絵よりも彼女自身にとても魅力を感じます。特に絵を描くことをやめ、陶磁器を創っていた頃の彼女の顔が大好きです。いつも黒と白を基調にした地味な服を着て、どこか遠くを見ているあの目が大好きです。

 彼女は色彩に関してこだわりがあり、自分の着る服に気を使い始めると、芸術に使う時間がなくなるからと、いつもモノクロの服を選んでいたという話を聞いたことがあります。身の回りも必要最低限のものしかもたず、とてもシンプルな生活をしていたそうです。

 小野洋子さんもシンプルな生活を好む女性です。ジョージアのまなざしをみていると、小野さんの目に似ていると思うのは、ボクだけでしょうか?

「空より素敵なアートなんて、あるのでしょうか?」
  ー オノ・ヨーコ

* 出典:「ジョージア・オキーフ・ニューベーシック・シリーズ」 ブリッタ・ベンケ著 タッシェン・ジャパン発行 2002年 ISBN: 4887831528




★ Websites

Alfred Stieglitz, Georgia O'Keeffe & American Modernism

 アルフレッド・スティーグリッツの代表作が見られます。

Georgia O'Keeffe Museum

 サンタ・フェにあるジョージア・オキーフ・ミュージアム。



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2010/02/13(土) | 【エッセイ】 | トラックバック(0) | コメント(0)

【エッセイ#20】 「ボニーとクライド」

 テキサス生まれのクライド・バロウ(Clyde Barrow)。子供の頃から気性が荒く17歳でギャングの仲間入り。クリスマスに七面鳥を盗んだのを手始めに、やがて自動車泥棒をするまでになりました。問題は、警察のやっかいになっても家族の誰もクライドを非難したりはしなかったこと。それどころか「おまえは悪くない」という態度だったそうです。やがて兄と共にダラスで強盗の常習犯になっていきました。

 同じくテキサス生まれのボニー・パーカー(Bonnie Parker)。父親が早くに亡くなったため、残された家族はダラス近郊にある祖母の家にやってきました。ボニーは学校の成績は良かったのですが、暴力的で、暴れ出したら手がつけられないという一面もありました。16歳の時、高校の同級生と結婚すると18歳でウエイトレスとして働くようになります。ところが旦那は腕のいい金庫破り、やがて銀行強盗の容疑で逮捕され刑務所送りになります。ボニーがクライドと出会ったのは、そんなある日のことでした。

 貧乏な家庭で育ったボニー。少しばかりの贅沢にあこがれながら、現実は退屈な生活の連続。そんな中に現れたクライドは、いつも警察に追われている自動車泥棒。彼女にとって、ちょっと危険で魅力的な男だったのです。ところがふたりが出会って2週間目にクライドは逮捕されます。

 時代は1930年、看守による暴行や虐待が堂々と行われていた時代です。クライドにとっても、刑務所での生活は辛いものでした。自分よりも大きな体の看守から、殴る蹴るの暴行を受ける毎日。やがて彼は復習の計画を立て始めます。釈放されたら派手に儲けてギャングを大勢雇い、刑務所を襲って受刑者たちを解放しようという計画です。

 一方、文通を通してボニーとの愛も生まれていきました。女性は苦手だったと言われるクライドも、獄中での辛い毎日を彼女からの手紙で慰められたのでしょう。詩を書くことが大好きだったボニーは、ある日こんな言葉を手紙に添えていたそうです。

 「もしもあなたと1週間でもいいから一緒に過ごせたら、私はいつだって死ねるよ」。

 クライドが釈放されると、ふたりは銀行強盗を始めました。そしてある日、宝石店に押し入り店主を殺したのをきっかけに、カネを盗むために人を殺すことすら平気になっていったのです。警察に追われながらもふたりは逃げ延びました。カネが手にはいるとドレスを買ったりレストランで食事をして楽しみました。それが、彼らが憧れた小さな贅沢だったのです。

 不思議だったことは、新聞が彼らの犯罪を書き立てると、なぜか彼らをヒーローのように受け止める市民が少なくなかったことです。彼らをかくまった罪で起訴された人もいました。不況と禁酒法の中で、市民のストレスは相当なものだったのでしょう。そんな中で銀行や宝石店を襲い、警察から逃げ回る彼らを応援したくなったのでしょうか?

 ところで、彼らはどのくらい稼いでいたのでしょう? 実はほとんどお金なんて盗むことができなかったのです。当時、アメリカは大恐慌のまっただ中。押し入った先の銀行が倒産しているということもありました。商店も不況で売り上げもなく、殺人まで犯して奪ったカネがわずか数十ドルということもあったそうです。

 ふたりは家族や友人にかくまわれながら、何度かダラスに戻ることもありましたが、警察からの追跡は厳しくなり、ろくな稼ぎもないまま、飢えをしのぎながらの逃亡生活に疲れていきました。

 1934年5月23日の朝、ギャング仲間の家族の裏切りで警察に情報が流れ、ボニーとクライドはルイジアナ州ギブスランドで待ちかまえていた警官隊に射殺されました。ボニー23歳、クライド25歳。50発以上の弾丸を受けた2人の死体は、ダラス市内の別々の墓地に葬られました。いつか死んだら、ふたり並んで墓に入れて欲しいと願っていたボニー。そんな願いも、彼女の母親の反対のために叶えられなかったのです。




「禁酒法」

 アメリカでの禁酒法は1851年にメイン州で始まったのが最初、それが1920年には全国で施行されるまでになりました。禁酒法とは、酒、つまりアルコール飲料の製造と販売を禁止する法律です。もともと清教徒を中心にアルコールに対する批判があったのが禁酒法のきっかけのようですが、これがアメリカ全土へと広がった理由には、当時アメリカの酒造・販売業界を取り仕切っていたドイツ系移民への反発があったという説もあるようです。

 この法律の面白いところは、アルコール飲料の製造と販売は禁止していても、飲酒という行為は禁止されていなかったことです。ですから法律が施行される前に「買いだめ」していた人も多く、実際、街から酒が消えるとまではいかなかったのが現実でした。しかもお隣のカナダまでいけば当然合法的に買えるわけですから、どこまで意味のある法律だったのか疑問が残ります。

 禁酒法による悪影響もありました。「アンタッチャブル」でおなじみのアル・カポネのように、マフィアやギャングが酒の製造・販売を取り締まる役人を買収していました。いわゆる「闇酒」が流通していたのです。

 ボニーとクライドが中西部や南部で強盗を繰り返していたのは、全国的に禁酒法が施行されていた30年代初頭でした。1929年10月のブラックサーズデーをきっかけに始まった大恐慌も重なり、酒の取り締まりを受け、カネもない人々にとっての敵は、まさに警察と銀行だったのでしょう。そんな時代背景が、ボニーとクライドを英雄にしてしまったのかもしれません。

 1933年12月、禁酒法はルーズベルト大統領によって廃止されました。しかし今でもアルコールに対する風当たりはそれなりに残っています。モルモン教徒の多いユタ州でのアルコール販売に対する厳しさを、ソルトレイクでの冬季オリンピックで知った方も多いでしょう。南部では休日に酒類を販売してはいけない州があります。カリフォルニアなどでは、必要以上に酒を飲むことは薬物中毒の一種としてとらえられることもあり、建前としてはあまり褒められた行為ではないとされているようです。




★ DVD

俺たちに明日はない

 ボニーとクライドの物語をロマンティックに美化した映画。監督はアーサー・ペン。出演は、クライドにウォーレン・ビーティとボニーにフェイ・ダナウェイ。



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2010/02/20(土) | 【エッセイ】 | トラックバック(0) | コメント(0)

【エッセイ#21】 「アポロ計画」

 「ソ連より先に人間を月に着陸させることが最優先だ」

 「いや、その前に月の環境をもっとよく知るべきだ」

 2001年、ジョン・F・ケネディー図書館が公開した録音テープには、宇宙開発計画についてケネディー大統領とNASA(米航空宇宙局)のウェッブ長官のあいだに繰り広げられた、激しい議論が残されていました。この中で政治家ケネディーはソビエトとの競争を強調、月への有人飛行が最優先との主張をしているのに対し、科学者ウェッブは有人飛行はプロジェクトのひとつではあるが、飛行士の安全のためにも、まずは月の環境について十分に調査することが最優先だと意見しています。

 このテープが録音された前年の1961年、すでにケネディーは「我々は月へ行くという選択をした。60年代が終わるまでに月へ行く」というあの有名な議会演説をしています。当時、ソ連はすでに人類初の人工衛星「スプートニク」の打ち上げに成功、ケネディーの議会演説の1ヶ月半前には有人飛行にも成功していました。そして月へ無人探査機を送る「ルナ計画」も始まっていたのです。

 自国上空をソ連の人工衛星が飛ぶと言うことは、アメリカにとって大変な軍事的驚異だったのでしょう。さらに月の所有権を主張されるかもしれないという恐怖もあったようです。ケネディーは1962年の11月に暗殺されますが、大統領の約束を果たすべく、アメリカは史上最大の宇宙開発プロジェクトを続けました。しかし1967年に予定されていた月への有人飛行計画は、このときすでに約2年の遅れがでていたのです。

 「アポロ」と名付けられた月への有人飛行計画は、3回に渡る無人ロケットの打ち上げテストの後、ついに1967年2月、有人で司令船の飛行テストを行う予定でした。しかし打ち上げまであと1ヶ月とせまったある日、司令船の内部で火災事故が発生、訓練中の飛行士3人が亡くなりました。高純度の酸素で満たされた船内での漏電が原因だったようですが、火災により内部の気圧が上がった状態では内側に開く構造のドアを開けることができず、事故は最悪の結果になってしまいました。この影響で有人飛行テストは延期、計画はさらに遅れていきます。

 事故のため中止された飛行テストはアポロ計画としては4回目の打ち上げになるはずでした。しかし事故で亡くなった飛行士たちが生前に残した「アポロ1号という名前は、初の有人飛行のためのものだ。私たちが飛ぶまでこの名前で呼ばれるロケットはない」という言葉が尊重され、以後、これが「アポロ1号」と呼ばれるようになりました。それ以前の無人ロケットはそれぞれアポロ1A、アポロ2号、アポロ3号と解釈し、1967年11月に再開されたアポロ計画の次なるロケットはアポロ4号と呼ばれました。

 結局、アポロ計画として初めての有人飛行は、翌1968年10月に打ち上げられたアポロ7号で実現しました。その後、月への周回軌道を飛行するテスト、司令船と月着陸船とのドッキングテストなどを経て、いよいよ人類初の月への第一歩を踏むためにアポロ11号が飛び立ったのは、1969年7月16日のことでした。

 ケネディー大統領が約束した「60年代のうちに・・・」という期限は目前に迫っていました。NASAは、もしもアポロ11号が月面着陸に失敗したときのために、9月にはアポロ12号を、そして12月にはアポロ13号を予定していました。なんとしても60年代のうちに人類を月に送り込もうというアメリカの意地だったのでしょう。一方、無人探査機による月面着陸計画を進めていたソ連は、アポロ11号の打ち上げより3日前にルナ15号の打ち上げに成功、探査機は月面着陸をめざして月への飛行を続けていました。

 1969年7月20日、アポロ11号のアームストロング船長とオルドリン飛行士は月面着陸に成功、21時間の滞在の後、地球へ向けて帰還の途につきました。アメリカの月着陸船が離陸準備をはじめた頃、ソ連のルナ15号は月面着陸に失敗。「危機の海」に激突しました。

 アポロ11号の成功により、アメリカはソ連との宇宙開発競争に大逆転しました。翌年4月に打ち上げられたアポロ13号が事故のため月面着陸を断念した他は、1972年12月、アポロ計画最後の飛行となったアポロ17号にいたるまでに、12人の飛行士たちが月面着陸に成功しています。

 その後、米ソの宇宙開発は競争から離れ、両国はアポロとソユーズによる共同プロジェクトを行う一方、アメリカは宇宙輸送システム「スペース・シャトル」の、ソ連は宇宙ステーション「ミール」の開発へとそれぞれ独自の道を進むようになりました。そして現在、国際宇宙ステーションにはアメリカとロシアの宇宙飛行士が一緒に滞在しています。




「To the Mars」

 2004年1月、ブッシュ大統領は、アメリカが新たな有人宇宙計画に向けて動き出すという内容の演説を行いました。具体的には、まず月面に基地を作り、そこを足がかりに火星への有人飛行を行うというものでした。

 いつの時代も宇宙開発における一番の難題は資金です。当初20号まで予定されていたアポロ計画は17号で打ち切りになり、それ以後、アメリカは月への有人飛行を行っていません。主な理由のひとつは「(有人飛行は)カネがかかりすぎるから」です。月面探査にしろ惑星探査にしろ、無人探査機でできることはまだまだたくさんあります。

 そして今や、火星への有人飛行を目指しているのは国家だけではありません。インターネット起業家として大成功を収めたイーロン・マスクさんは、自ら起こしたネット企業を手放すと、宇宙探査を行うための「Space Exploration 社」を設立しました。彼は宇宙飛行のコストを従来の2/3にまで落とそうと努力しているのです。またイーロンさんは、人類を火星に送るという計画は、国と民間を巻き込んだ国際的なプロジェクトになるだろうと話しています。

 ところでブッシュ大統領は、新たな宇宙計画のためにどれほどの費用を捻出する予定なのでしょうか?この計画のための当初の予算は、最初の5年間で少なくとも120億ドルほど必要だと言われていました。それに対してホワイトハウスが予定していた費用は10億ドル。残りは「スペースシャトル計画」や「国際宇宙ステーション」の分をまわしてまかなうとのこと。さらにロシアの協力も期待していたようです。

 一方、惑星協会のフリードマン博士は「火星への有人飛行には1回500億ドルはかかるだろう」と考えていたそうです。ちなみに、60年代に行われたアポロ計画では、当時のお金で300億ドルかかったそうです。

 もうひとつ興味深い数字があります。当時アメリカが1年間イラクを占領するためにかけた費用が、だいたい500億ドルだったそうです。この数字をみると、宇宙開発の難題は、はたして本当に資金の問題なのだろうかと考えてしまいます。




★ Websites

Johnson Space Center

 ヒューストンにあるジョンソン宇宙センターのサイト。スペースシャトルをはじめ、国際宇宙ステーションの管理をしています。センターの見学施設についてのサイトはここ → http://www.spacecenter.org/



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2010/03/06(土) | 【エッセイ】 | トラックバック(0) | コメント(0)

【エッセイ#22】 「Remember the Alamo!」

 抜群の晴天率と温暖な気候をもつテキサス州サンアントニオ。のんびりと休暇を過ごす観光客の多いこの街に「アラモの砦」はあります。アラモはもともとスペイン人の宣教師によってつくられた教会でした。教会といっても、ネイティブ・アメリカンたちをカトリックに改宗させ、さまざまな知識や技術を伝えていくのが主な目的でした。

 1800年代初頭、メキシコ領だったアラモは首都から遠く離れていたためメキシコ政府の支配力も十分ではなく、いつしか町にはアメリカからの商人が多く入植するようになっていました。このため経済摩擦からアメリカとメキシコの関係は悪化していきます。やがてテキサスとして独立の機運が高まると、メキシコ軍はアラモを要塞としてこれに応戦、度重なる争奪戦の末、1836年2月にアラモを占拠していたのはわずか200人足らずのアメリカ人たちでした。

 デイビット・クロケット(David Crockett)が12人の仲間を率いてアラモの戦いに参戦したときには、アメリカ軍の物資弾薬は底をつきかけていました。一番近くのアメリカ統治下にある街ゴンザレスまでは70マイルもあります。ついにアラモは3000人を越えるメキシコ軍に包囲され、彼らは絶体絶命の危機に追いつめられます。


 デイヴィーの愛称でアメリカ人に親しまれているフロンティアの英雄デイビット・クロケットは、1786年、テネシー東部の村に生まれました。父親は農場や酒場を経営しますがうまくいかず、10代のデイヴィーは父親の借金を返すために働かなければなりませんでした。20歳で結婚すると、当時の多くの貧しい家庭がそうであったように、新たな開拓地、フロンティアを求めて西へと移動する生活を送っていました。ところが、無教養で貧しいけれど冗談のセンスと人の良さで人望を集め、35歳でテネシー州議会に当選しました。さらに「おまえみたいな冗談のようなヤツが政治家としてワシントンに行ったら、さぞかし東部の人間は驚くだろうな」という冗談を真に受けて下院議員に立候補したのですが、なぜか当選してしまったのです。

 ミシシッピー川に面したテネシー州最西部の郡から猟師の格好でワシントンにやってきた素人政治家は、酷い訛のある英語で繰り出す皮肉や冗談が受け、瞬く間に知名度をあげていきました。しかし、デイヴィーの話すおもしろい逸話は、そのほとんどがホラ話だったそうです。

 軍隊の上官として、また同じテネシーの出身者として慕っていた民衆の政治家アンドリュー・ジャクソンに共感して民主党に所属していたデイヴィーですが、同じ民衆の政治家とはいえ、アンドリュー・ジャクソンとデイヴィーでは育ちも家柄もまったく異なっていました。開拓民に有利な農地提供を訴えていたデイヴィーは、すぐにジャクソンと意見がぶつかりはじめます。そしてジャクソンが大統領に就任すると、もはやデイヴィーには打つ手なし。大統領を批判して民主党を離れた素人政治家は、もはや選挙に勝つことはできませんでした。

 ワシントンを去ったデイヴィーは、再びフロンティアを求めて西に向かいます。その時の捨てゼリフは当時のテキサスをうまく表現していたかもしれません。

「有権者はみんな地獄に行くがいい。オレはテキサスに行く」。

 こうしてテキサスにやってきたデイヴィーは、そこで独立運動に出会います。これこそ名誉挽回の大きなチャンスとばかりに参戦したまではよかったのですが、アメリカ軍はアラモの砦でメキシコ軍に囲まれてしまったのです。

 13日間に渡る激戦の後、デイヴィー達は全滅、アラモの砦はメキシコ軍に落とされました。しかしアメリカ開拓民たちの英雄デイヴィー・クロケットの名と共に「アラモを忘れるな!」の呼び声があがると、アメリカ軍は一気に攻め返し、サンジャシントの戦での勝利によりテキサスを占領します。これをきっかけに勃発したメキシコ戦争で勝利したアメリカは、さらにニューメキシコとカリフォルニアを領土とすると、イギリスとの協議によって手に入れたワシントン、オレゴンを含めた大陸国家となったのです。


 ところで、サンジャシントの戦の後、テキサスは一時期「テキサス共和国」として独立しました。なぜすぐに合衆国に加わらなかったのでしょうか?これには奴隷制度、つまり経済問題と自由国家という「本音と建前」の問題が影響していたのです。結局、テキサス共和国は独立後わずか9年で、経済的な理由から奴隷容認の州としてアメリカ合衆国の一部になったのです。




「西部とフロンティア」

 アメリカについて語るときの頻出キーワードに「西部」と「フロンティア」という言葉があります。本来、アメリカ人にとって「西部」といったら、それはアメリカ独立当時の13州以外の西の地域すべてを指しました。

 当初はアパラチア山脈からミシシッピ川あたりまでが西部として知られていましたが、その後開拓を進めていくうちに、それはロッキー山脈まで広がり、やがては西海岸にまで到達します。現在ではこれら「西部」の地域を、中西部、北西部、南西部、西海岸というように区切っています。

 もうひとつのキーワード「フロンティア」とはどういう意味なのでしょうか?アメリカ人にとって「フロンティア」とは「開拓線」もしくは「辺境」などといった意味があるようです。つまり、既存の土地と未開の土地との境が「フロンティア」だと思っていいようです。

 開拓時代の合衆国政府による定義では「1平方マイルに6人以下の土地との境界線をフロンティアとする」とされています。もっとも、一般的に「フロンティア」と言う場合には、線ではなく、その地域を指します。つまり、1平方マイルに6人以下の土地と接している地域が「フロンティア」だと思っていいのでしょう。

 アメリカ独立当時、13州のうち西側に面した州を「フロンティア」としてどこまでも横に延ばしていくことができました。開拓民達は主に農業で暮らしを立てていたのですが、生活がうまくいかなくても他人の成功を羨むこともなく、ただその土地を捨て、新たに西を目指して行けばよかったのです。そこでは地位も名誉もなんの役にも立ちませんでした。農業に適した土地を見極める目と、狩りの腕がすべての実力社会です。アメリカの西部開拓民とは、成功を求めてどこまでも西へと進む農耕と酪農の民でした。

 農家を手伝いながら狩りで取った毛皮を商人に売っていたデイヴィー・クロケット。政治家として農民の代弁者となり、テキサスの独立戦争で戦死した「フロンティアの英雄」として、彼の武勇伝は今でもアメリカ人の間に語り継がれているのです。




★ DVD

アラモ 特別版

 アラモ 特別版のDVDです。昔、ジョン・ウェインが監督・主演で映画化したのもありました。



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2010/03/13(土) | 【エッセイ】 | トラックバック(0) | コメント(0)

【エッセイ#23】 「KO」

 ジョージア生まれのジョン・ペンバートン(John Penberton)は、とても苦労の多い人生を歩んでいました。薬剤師だった彼は自ら薬局を経営、やっとの思いで商売が軌道に乗ったころに南北戦争が勃発、南軍の兵隊として戦地に赴き、戦闘で負ったケガがもとで重度のリュウマチを患ってしまいます。戦争が終わるとアトランタで再び薬局を開きますがうまくいかず、しかしなんとか繁盛しはじめるた頃、今度は火事で店を失うこと2回。それでも彼が情熱を燃やし続けらたのは、当時ちょっとした流行だった「新薬開発」の夢のためでした。火災による借金を返し終えると、ジョンは再び新薬開発をはじめました。

 1879年当時、今日の薬事法のような法律はなく、薬剤師達は独自にさまざまな薬を開発しては、大きな富を築いていました。そんな中、注目を集めていたのは「奇跡の植物」と呼ばれていたコカでした。当時はコカインの習慣性はあまり知られておらず、なんの取り締まりもなかったのです。そしてワインにコカを加えた薬用酒がヨーロッパで大ブームになっていました。あのエジソンやローマ法王も愛用していたそうです。

 ジョンはさっそくこの薬用酒をヒントに新しい薬を開発、ワインにコカとカフェインを加えた「フレンチ・ワイン・アンド・コカ」という薬用酒は1週間で1000本ほども売れました。

 ところがジョンの苦労は続きます。あの禁酒法を施行する州が出てきたのです。ワインをベースにした「フレンチ・ワイン・アンド・コカ」は禁酒運動のやり玉に挙げられ、売り物にならなくなってしまったのです。アルコールを使わない薬用飲料の開発が必要でした。持病のリューマチによる痛みを和らげるため、モルヒネ中毒になりながらもジョンは新薬開発を続け、1886年、ついにアメリカの歴史上もっとも偉大な発明のひとつがなされました。それはワインのかわりに炭酸水をつかった薬用飲料「コカコーラ」でした。

 翌年、コカコーラの特許を取ったジョンでしたが、すぐさまアトランタの薬業者、エイサ・G・キャンドラーに売却してしまいます。エイサは優れたマーケティングでコカコーラを薬用飲料から嗜好飲料へと変えていきました。薬局の店頭で1杯5セントで売られていたコカコーラは、190mlの瓶詰めにされて瞬く間にアメリカ中に広まっていったのです。

 やがてコカの習慣性が知られるようになると、コカコーラを飲むことに不安を持つ人たちが増えていきます。エイサはコカコーラにコカを使うことをやめ、健康的な飲み物であることをアピールしました。しかも彼は「いままでコカコーラにはコカインが入っていたのか?」という社会からの疑問を拭うため「コカコーラにはもともとコカは使っていない」とさえ言ったこともあるようです。

 アメリカ全土で大人気のコカコーラでしたが、その類似品との戦いもすさまじいものでした。多いときには7000以上にも及ぶコカコーラの類似品が市場に出回り、ブランド戦略のためにコカコーラ社が使った広告費は1912年当時ですでに100万ドルを超えていたそうです。独自のボトルデザインや数々のコカコーラグッズの販売、今でこそ世界的に常識となった「赤白の服を着たサンタクロース」も、コカコーラの広告がその始まりでした。

 ところがそんな中、とうとうコカコーラに追いつき、追い越す勢いで独自のコーラを販売する企業が現れました。ペプシです。1985年、ペプシの猛追をかわすべくコカコーラはさらにさっぱりとした味にするようシロップの調整を変更しました。よりペプシの味に近くなったと言われたこの新しいコカコーラは、事前の目隠しテストでペプシよりも良い成績をあげていました。ところが発売後の反応は酷いもので、消費者ホットラインへの抗議電話は日に8000本を越え、手紙は4万通以上も届けられました。新しい味が云々よりも、みんな子供の頃から慣れ親しんだ昔ながらのコカコーラが欲しかったのです。

 こうして対ペプシのコカコーラの戦略は大失敗に終わったかのように思われましたが、逆にこの事件で一気に注目を集めると、昔ながらのシロップに戻した「コカコーラ・クラッシック」がペプシを越える勢いで売れたのです。

注)タイトルの「KO」というのはコカコーラ社のティッカーシンボルです。

「ティッカーシンボルってなんだよ?」

 コカコーラ社の株式を表す記号です。証券会社に「KOを一つ下さい」というと、コカコーラ社の株をひとつ売ってくれます。




「新薬長者」

 19世紀後半のアメリカでは、なんにでも効く万能薬を求めて薬剤師による新薬開発が盛んに行われていました。とはいっても実際は疲労回復や二日酔いのためのリフレッシュメント、つまり清涼飲料水のようなものがほとんどだったようです。ですから薬局とはいえ、夏の日差しのなか清涼飲料水を一杯求めて人が集まるジュース・スタンドのようなものだったのでしょう。しかし万能薬と呼ばれた清涼飲料水の販売で巨額の富を築いた薬剤師は少なくなく、当時は規制のなかったコカインを含んだアルコール飲料は決して珍しいものではなかったようです。

 禁酒法によりアルコールが使えなくなってからは、ソーダが人気を集めました。ちょうど炭酸水を工業的に安く大量に生産する技術が生まれ、さわやかな炭酸飲料が流行りはじめていたのです。そこにコカインとカフェインを含んだコカコーラが生まれたのも、時代の流れだったのでしょう。

 このときの新薬ブームで生まれた清涼飲料水のなかで、今でも売られているものがコカコーラの他にもあります。たとえばノンアルコール・ビールとして知られる ROOT BEER。当時は「6種類の植物エキスを含み、血をきれいにして薔薇色の頬をつくる」という宣伝文句で売られていたそうです。

 もうひとつ、日本でもおなじみなのが Dr Pepper。これはテキサスのドラッグストアに勤務する薬剤師が開発しました。商品名はストアのオーナーだった Dr. Charles Pepperの名前からとったそうです。




★ Websites

The World of Coca-Cola

アトランタにあるコカコーラミュージアム。コークの歴史、グッズの紹介、なんでもあります。



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2010/03/20(土) | 【エッセイ】 | トラックバック(0) | コメント(0)

【エッセイ#24】 「MTV cops」

 1980年代初頭、音楽番組をひたすら流し続けるMTVが若者達の間で大人気でした。そして開局間もないこの放送局の成功をヒントに、新たな人気番組のアイデアをふくらませているプロデューサーがいました。当時、3大ネットワークのなかで最下位だったNBCテレビの娯楽番組責任者、ブランドン・ターティコフ(Brandon Tartikoff)です。

 ブランドンはまず、大ヒットしたドラマ「ヒルストリート・ブルース」(Hill Street Brues)で一緒に仕事をしたプロデューサー兼脚本家のアンソニー・ヤーコビッチ(Antony Yerkovich)を訪ねます。

 「MTVのようにノリのいい音楽をバックに、ファッショナブルでスピード感のある派手な刑事モノをつくりたい!」

 「MTV cops」と彼らが呼んだこの新しい番組企画、アンソニーはマイアミを舞台にした映画「スカーフェイス」をモデルに最初の脚本を書き上げると、刑事物をはじめとするテレビドラマ制作経験の豊富なプロデューサー、マイケル・マン(Michael Mann)に送りました。

 マイケルは以前からアメリカの麻薬取締局を題材にした刑事ドラマをつくりたいと考えていたので、ブランドンとアンソニーからの話は願ってもないチャンスでした。そして「MTV cops」を、2人の刑事がマイアミを舞台に麻薬犯罪の潜入捜査で活躍するアクション・ドラマに仕立て上げたのです。

 「潜入捜査」は、ブランドンが目指した「ファッショナブルでスピード感のある派手な刑事モノ」にはうってつけの設定でした。とかく小汚い服に無精髭のイメージが抜けない刑事ドラマでしたが、「金回りの良い麻薬犯罪者のなかに潜入して捜査する」のですから、刑事も高級ブランドに身を固め、フェラーリを乗り回す大義名分がつくわけです。

 こうして生まれた新ドラマ「マイアミ・バイス」は、マイケル・マンをエグゼクティブプロデューサーとして制作が始まりました。刑事役の2人ドン・ジョンソンとフィリップ・マイケル・トーマスはイタリア製のスーツを着こなし、腕にはロレックス、そしてクルマはフェラーリ。初回放送の2時間スペシャル版の制作には通常の倍の500万ドルが費やされました。次々と流れていくスピード感溢れるアクションシーンの後ろでは、ローリングストーンズ、ライオネル・リッチー、シンディー・ローパー、フィル・コリンズなどの曲が流れ、瞬く間に話題の人気番組になったのです。

 初回の視聴率は23.4%、放送の翌日、ラジオ局には番組で流れた曲のリクエストが殺到しました。MTVを意識した刑事ドラマにはもちろん多くのミュージシャンがゲスト出演しています。たとえば、グレン・フライ、ジーン・シモンズ、リトル・リチャード、マイルス・デイヴィス、フィル・コリンズ、ヤン・ハマー、フランク・ザッパ、ウィリー・ネルソン、ジェームズ・ブラウン、シーナ・イーストンなどなど。ドラマのテーマ曲を含んだサントラ盤はミリオンセラーを記録、全米1位を11週間つづけました。

 ドラマはほとんど見ないという音楽好きをもテレビの世界に引き込んで、瞬く間にアメリカを代表する人気シリーズになった「マイアミ・バイス」。当時冴えなかったNBCを業界No.1に押し上げたこのシリーズへの出演をきっかけに、後の大スターに育っていった俳優も少なくありません。




「スター前夜」

 日本でもシリーズの一部が放映されて人気を集めた「マイアミ・バイス」、実は番組を取り巻くスタッフやちょい役で出演した俳優達の中には、後の大物がたくさんいました。

 まずエグゼクティブプロデューサーを務めたマイケル・マン。今では「ビバリーヒルズ青春白書」で有名な制作者、アーロン・スペリングと共に、「刑事スタスキー&ハッチ」「ベガス」といった作品を送り出した他、映画では「ヒート」「インサイダー」「コラテラル」、テレビシリーズでは「CSI:科学捜査班」の監督も務めています。

 監督は「ワイルド・スピード」「トリプルX」のロブ・コーエン、「ネゴシエーター」のトーマス・カーターらが務めたのをはじめ、脚本家ではジョエル・サーナウが「ニキータ」や「24」で日本でもおなじみになったほか、「ブラック・レイン」のクレイグ・ボロティンも参加していました。

 キャスティング担当のボニー・ティマーマンは「アルマゲドン」や「パール・ハーバー」などで活躍。ブルース・ウィリスやジュリア・ロバーツなど、彼のキャスティングで「マイアミ・バイス」にゲスト出演した新人達は、その後も大きな仕事をつかむチャンスに恵まれ、大スターへと育っていきました。




★ Website

MTV COPS MUSIC OF MIAMI VICE

 「マイアミ・バイス」ってなによ?という方はまずこちらから。ストーリー紹介をはじめ、番組内で使われた楽曲一覧などのデータベース、クルマや衣装にまつわる逸話の紹介もあります。



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2010/03/27(土) | 【エッセイ】 | トラックバック(0) | コメント(0)

【エッセイ#25】 「Masters」

 1933年1月、ジョージア州オーガスタに会員制のゴルフクラブ「オーガスタ・ナショナル・ゴルフクラブ」(AUGUSTA NATIONAL GOLFCLUB)が正式にオープンしました。「どんなレベルのプレイヤーでもゴルフを楽しめるコース」という理想をもって造られた「オーガスタ・ナショナル」は、土地の高低差や小川などの自然な地形を利用して設計され、上質なフェアウェイに最小限のバンカーとラフをもつ美しいコースです。

 フルーツランド・ナーサリーズと呼ばれたその土地は、世界中からいろいろな植物を輸入する会社の所有地でした。経営者の死により会社はなくなりましたが、マグノリアやアゼリアなどの美しい植物はまだ残っていたのです。「オーガスタ・ナショナル」の建設のために最適な土地を探していたボビー・ジョーンズ(Robert Tyre Jones)は・・・

 「完璧だ、この土地は誰かがゴルフコースを造ってくれるのを待っている!」

 と言って、7万ドルでその土地を買い取りました。資金は、アマチュアにして当時の4大メジャーを制したボビーをゴルファーとしても人間としても尊敬していた、友人で実業家のクリフォード・ロバーツ(Clifford Roberts)が支援しました。彼らはこのゴルフコースで、商業性をできるだけなくした、真にゴルフを愛するメンバーだけのトーナメントを開催することを夢見ていたのです。そして1934年3月22日の第1回大会「AUGUSTA NATIONAL INVITATION」は、やはりボビーを尊敬し慕う59人のクラブ会員だけで開催されました。


 世界のゴルファーから尊敬されるボビー・ジョーンズは、1902年、ジョージア州アトランタに生まれました。小学生の頃は病弱で学校を休みがちでしたが、野球やテニスが大好きな少年でした。ゴルフとの出会いは5歳のとき、両親が初めてゴルフを習うためにレッスンプロについたのがきっかけでした。

 子供用に短く切ったゴルフクラブを手に、父親と一緒にコースをまわるボビー少年。レッスンプロのスイングをじっと見ているうちに、そのスタイルをまねして素振りの練習をはじめました。ボビーの父親は「この子は物まねがとても上手でね、すっかりプロのスイングをマスターしてしまったんだよ」と言いながら、ボビーのスイングをゴルフ仲間にみせては自慢していたそうです。そしてプロゴルファーのはくズボンとハンティング帽を買い与えました。気をよくしたボビーは、スイングだけではなく歩き方や身のこなしまで、見事にプロの動きをまねするようになったそうです。

 こうしてゴルフの世界にのめり込んでいったボビーがはじめて優勝したのはアトランタ・アスレチック・クラブのジュニア選手権。9歳だったボビーは16歳の少年をマッチプレーで破り、初優勝を手にしたのです。そして14歳で全米アマチュア、18歳で全米オープンへの出場を果たすと、その天才的なゴルフの才能をさらに発揮していきます。アマチュアプレイヤーでありながら8年間のあいだに全米オープンで4回、全英オープンで3回の優勝をなしとげます。結局、この間に21の大きな大会に出場し、そのうち13試合で優勝したのです。そして1930年、当時の4大大会と呼ばれていた全米アマチュア、全英アマチュア、全米オープン、全英オープンの4試合を制覇、ゴルファーとして史上初のグランドスラムを達成すると、28歳の若さで引退してしまいました。

 アマチュアとしてゴルフをしていたボビーですが、同時に学業でもその才能を発揮しています。ジョージア工科大学で機械工学を専攻したのち、ハーバード大学で英文学科を卒業、さらにアトランタのエモリー大学法学部に入学、弁護士の資格を得ています。

 ゴルフを引退してからは、ゴルフクラブの設計や本の執筆を手がけながら理想のゴルフコースをめざして「オーガスタ・ナショナル・ゴルフクラブ」を設立、1934年に初めての大会「AUGUSTA NATIONAL INVITATION」を開催しました。この大会はその後「マスターズ」(Masters)と名称を変え、世界最高のゴルフ大会として独自の運営を続けています。いまでも毎年4月になると、「マスターズ」からの招待状を受け取った世界中のゴルファーたちがオーガスタに集い、ミラクルプレイを競い合っています。




「マスターズ委員会」

 ボビー・ジョーンズが「真にゴルフを楽しむための大会」を理念にはじめた「マスターズ」は、いまでも「マスターズ委員会」によって、その伝統が引き継がれています。

 「マスターズ」に出場するためには、毎年「マスターズ委員会」から届く「招待状」がなければなりませんが、そのためには17ある条件のうち最低1つを満たしている必要があります。この17の条件のなかには「昨年の全米アマチュアの優勝者と2位」、「昨年の全英アマチュアの優勝者」そして「昨年の全米ミッドアマチュアの優勝者」というアマチュアのための条件もあります。生涯アマチュアを通したボビーだからこそ、アマチュアプレイヤーを大切にしているのでしょう。ジャック・ニクラスやタイガー・ウッズも、初めて「マスターズ」の招待状を受け取ったときはまだアマチュアでした。

 「マスターズ委員会」はまた、商業主義を嫌うことでも知られています。テレビ局への放映権は他のメイジャーな大会に比べると格安の値段です。そのかわり、どの放送局に放映権を売るのか、アナウンサーは誰を使うのか、そしてコマーシャルを入れるタイミングをはじめとした放送内容の構成にいたるまで、そのすべてに注文を付けてきます。そして大会会場には広告は置きません。

 「気に入らないのならそれでもかまわない。放送も取材も宣伝もしなくていい。我々は好きなようにこの大会を行う」というのが「マスターズ委員会」のスタンスなのです。

 しかし最近では「マスターズに男性プレイヤーしか招待しないのは性差別ではないのか?どうして女性をプレイさせないのか?」という声もあがっています。格式や伝統は行き過ぎると少々問題を起こすことがあります。確かに「マスターズ」は私的な大会かもしれませんが、もはや「マスターズ委員会」だけのものにしておくのは難しくなってきているのかもしれません。「真にゴルフを楽しむための大会」というボビー・ジョーンズの哲学を忘れずに、楽しい大会を続けて欲しいものです。




★ Website

 「The Official Site of the Masters Tournament

 マスターズのオフィシャルサイト。マスターズの歴史やボビー・ジョーンズについての逸話をはじめ、過去の大会の記録や次回大会の案内があります。



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2010/04/03(土) | 【エッセイ】 | トラックバック(0) | コメント(0)

【エッセイ#26】 「フライヤー」

 気象台に問い合わせたところ、グライダーを飛ばすのに最適な風が欲しいならノースキャロライナのキティホークが良いということだったので、オハイオ州デイトンに住むウィルバー・ライト(Wilbur Wright)はさっそく出かけて行きました。1900年9月6日のことです。まずは汽車で一晩かけて大西洋岸の町、オールドポイントへ。そこから船でノーフォークに渡ると、キティホークまで乗せてくれる漁船を探すのに4日かかりました。グライダーは出発前に分解して先に貨物で送りましたが、翼の骨になる木材は長すぎて送れなかったため、途中、ノーフォークで調達しました。

 キティホークでは、気象台から紹介してもらった地元の郵便局の局長ビル・テイトが出迎えてくれました。ビルの家に一泊した後、ウィルバーはグライダーの実験に適した砂地にテントを張り、食料や水を運び込むと、さっそく機体の組み立てにとりかかりました。

 やがて弟のオービル・ライト(Orville Wright)がやって来ると、ふたりは協力して生活環境を整えグライダーの実験に取りかかりました。彼らのグライダーは翼の両端をロープで繋ぎ、凧のように地上からコントロールすることができました。このグライダーを使って、兄弟は揚力と風の抵抗力を測定したのです。

 測定の結果は、彼らが計算して求めた予測値とは異なるものでした。「揚力が思ったほど得られない。人を乗せて飛ぶには予想よりも強い風が必要だ」。ドイツのグライダー研究家、オットー・リリエンタール(Otto Lilienthal)のデータをもとに求めた予測値を彼らは信頼していました。そして「きっとリリエンタールの飛行機よりも、翼の反りが小さいのだろう」という結論を出したのです。


 ウィルバーとオービルのライト兄弟は5人兄弟の3番目と4番目でした。子供の頃から機械いじりが好きで、ふたりで印刷機を作って新聞を発行したり、オリジナルの自転車を開発して自転車屋を経営したりしていました。ある時オービルが大きな病気で寝込んだとき、ウィルバーがプレゼントした「空飛ぶ実験」という本がきっかけで、ふたりは空を飛ぶことに興味を持ち始めます。この本の著者、オットー・リリエンタールは、鳥が羽ばたかずに滑空しているところを観察し、揚力を利用したグライダーの開発を行っていました。しかし1896年、突風に煽られたグライダーが墜落、オットーは帰らぬ人となりました。この事件を機に、ライト兄弟は本格的に飛行機づくりにとりかかります。そして1900年最初のグライダーを完成させると、強風の吹くキティホークにやってきたのです。彼らの最終目標は、エンジン付きの飛行機による有人飛行でした。

 はじめての飛行実験では失敗したライト兄弟でしたが、翌年、今度は翼の反りを大きく改良したグライダーをもって再びキティホークにやってきました。しかし今度は、機首が激しく上下に振れるというトラブルに直面しました。今度のグライダーには飛行中に機体を制御できるように、角度を変えられる水平安定板が着いていました。「この水平安定板が大きすぎるために、上下に振れるのだろう・・・」。さっそく改良してみますが結果はかわりません。「いったい原因はなにか・・・?」ライト兄弟がたどり着いた答えは「翼の反りが大きすぎる」でした。

 翼の反りを元に戻すと、上下の振れは水平安定板を操縦することで制御できるようになりました。しかしまたまた違う問題が発生します。今度は左右の振れでした。これを解決するために、ふたりは垂直尾翼を考え出したのです。

 しかし今回もまた、期待した揚力は得られませんでした。翼の反りは原因ではなかったのです。「オットー・リリエンタールのデータが間違っている」。ふたりは尊敬する先駆者の残した数字を捨てる決心をしました。

 デイトンに戻ると、ふたりは画期的な発明をします。今でも航空力学の実験には欠かせない「風洞実験装置」を開発したのです。長細い木箱の両端を開け、その一方から風を送り込みます。その中にさまざまなカタチの小さな翼を入れ、揚力と抗力を計測することができました。この発明があったからこそ、ライト兄弟の飛行機が完成したのだ言っても過言ではないでしょう。

 風洞実験を繰り返した結果、従来のものに比べて細身で長く、空気抵抗は小さく揚力が大きい翼が完成しました。そして1902年、再びキティホークにやってきた兄弟は強風の中で十分な揚力を得た機体が、バランス良く空中に静止する姿をついに見ることができたのです。垂直尾翼に方向舵がついたそのグライダーは、旋回することもできました。

 さまざまな実験と改良を加えた飛行機の特許を守るために、ライト兄弟の試験飛行はいつも秘密のうちに行われていました。しかし、歴史的瞬間には目撃者が必要です。1903年12月17日の試験飛行には、地元の人たちが5人集まりました。「フライヤー」と名付けられたグライダーには小型エンジンが取り付けられ、離陸予定地点にはカメラが備え付けられました。そしてゆっくりと滑走を始めた「フライヤー」は、ふわりと宙に浮いたのです。

 人類初のエンジン付き有人飛行機の飛行時間は12秒、飛行距離は36.6メートでした。オービルはすぐさま電報を打ち、デイトンにいる父親に成功を知らせました。




「ライバル」

 空を飛ぶことは人類の長年の夢でした。多くの人が挑戦し、失敗してきました。ライト兄弟の成功までの道のりには、さまざまな鳥人間たちの努力があったのです。ジョージ・ケイリーは1700年代に揚力と抗力の概念に基づいて飛行機を作ろうとしていました。オクターブ・シャヌートはグライダー研究の第一人者として、ライト兄弟に何百通もの手紙を書いてアドバイスをしました。スミソニアン研究所の理事を務めていたサミュエル・ラングレーは、模型飛行機の成功をきっかけに政府から多額の研究開発費を受けました。しかしライト兄弟が初飛行に成功した数日前に飛行実験に失敗し、その後すぐに引退してしまいます。それでも彼の研究成果をたたえたスミソニアン協会は「ラングレー・メダル賞」を設立、後にグレン・カーチスやチャールス・リンドバーグが受賞しています。

 アレキサンダー・ベルは電話の発明で知られていますが、グライダーの実験も行っていました。彼はライト兄弟の成功後も様々な飛行機を開発していたのです。自転車屋を経営していたグレン・カーチスは、自転車にモーターをつけたバイクの発明で名を挙げるとアレキサンダー・ベルと共に飛行機の開発にあたりました。1908年には1000メートル以上の飛行に成功、その後、ライト兄弟とは特許問題で争いながらもアメリカトップクラスの航空機メーカーを作り上げました。

 ところでライト兄弟が活躍していたちょうどその頃、日本でも二宮忠八が飛行機の開発を夢見ていました。ゴムを動力とするプロペラ模型飛行機は1891年に30メートルの飛行に成功しています。

 日清戦争のため野戦病院に来ていた忠八は、有人飛行機開発の案を軍の上層部へ提出しますが、まともにとりあってもらえません。そしてライト兄弟の初飛行の新聞記事を見ると、そのまま飛行機開発を止めてしまいました。しかし後になって忠八の飛行機開発案は評価され、さまざまな表彰を受けたのでした。



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2010/04/10(土) | 【エッセイ】 | トラックバック(0) | コメント(0)

【エッセイ#27】 「Sexual Elegance」

 アメリカ独立の地、ペンシルバニア州フィラデルフィア。かつて独立宣言が採択され「自由の鐘」が鳴り響いたこの街に、グレイス・ケリー(Grace Patricia Kelly)は生まれました。1929年11月12日のことです。狂乱の20年代が終わりを告げ、まもなく世界大恐慌の発端となる不況がやってこようとしていましたが、グレイスの父は建築関係の仕事で成功を収め、一家は裕福な暮らしを続けることができました。

 ケリー家は富だけではなく、政治やスポーツの世界でも成功を納めていました。フィラデルフィアの市長選に立候補したこともある父はボートのオリンピック金メダリスト。グレイスの兄弟や息子も、後に金メダルを得る活躍をします。そんな一家の中にあって内気で病弱だったグレイスは、スポーツのかわりにダンスやバレエ、ピアノ、声楽を習い、12歳でアマチュアの劇団に参加、叔父ジョージ・ケリーの応援を受けながら演技を習い始めます。

 スポーツの苦手なグレイスを父親はあまりかわいがりませんでした。どうにかスポーツ以外のことで父に褒められたい、そんな思いがグレイスを演劇の世界へと駆り立てたようです。高校を卒業すると1人ニューヨークへと向かったグレイスは、モデルだった母親譲りの美貌を活かしてモデルやコマーシャルの仕事をしながら生活費を稼ぎました。そしてアメリカン・アカデミー・オブ・ドラマティック・アーツに通いながら演技を磨いたのです。

 グレイスの女優としての才能が認められるまでに、そう時間はかかりませんでした。ブロードウェイの舞台に端役で出ると、すぐさま20世紀フォックスのスカウトから声がかかります。1951年の映画「14時間」(Fourteen Hours)でハリウッド・デビューを飾ると、翌年は「真昼の決闘」(High Noon)でゲイリー・クーパーと競演。その演技力を認められると今度はMGMから専属契約の誘いが来ました。そして53年の「モガンボ」(Mogambo)でアカデミー助演女優賞にノミネートさると、映画界でその地位を確かなものにしたのです。

 グレイスのもつ清楚な魅力のなかに女性のセクシーさを見いだしたアルフレッド・ヒッチコックは、彼女を「セクシャル・エレガンス」とたたえ、54年に「ダイヤルMを廻せ」(Dial "M" for Murder)と「裏窓」(Rear Window)に、翌55年には「泥棒成金」(To Catch A Thief)に起用するほどに彼女を気に入っていました。またグレイス自身は54年にジョージ・シートン監督の「喝采」(The Country Girl)でゴールデン・グローブ賞とアカデミー賞のそれぞれで主演女優賞に輝き、女優としての頂点を極めようとしていたのです。

 瞬く間に大女優への階段を駆け上っていったグレイスでしたが、その後なかなか主演作に恵まれませんでした。そんな時、運命の出会いがやってきたのです。55年のカンヌ映画祭で「喝采」が上映されることが決まるとグレイスは南フランスを訪問します。そこでモナコ王国のレーニエ大公(Rainier III de Monaco)に出会うと、ふたりは瞬く間に恋に落ち、翌56年に結婚しました。フィラデルフィア出身のアメリカ人女優が、一国の王妃になったのです。

 フランス語も話せず、王室の生活にもなかなか慣れなかったグレイスは、はじめの数年間をとても寂しく過ごしたそうです。巷では、モナコの話題づくりのための政略結婚ではないのか?という噂まで立つことがありました。それでも3人の子供に恵まれた頃には公務もすっかりこなせるようになり、モナコでの生活を楽しむようになります。そしてグレース王妃基金やモナコ・バレエ団などの設立を通して芸術の発展に貢献しました。

 運命の日は再び突然訪れます。1982年9月13日、グレイスは娘のステファニーとのドライブの途中、カーブを曲がりきれずに崖から転落、53歳の若さで亡くなりました。グレイスとステファニー、どちらが運転していたのか、事故原因はなんだったのか、すべては未だに謎のままです。




「女優の生涯」

 グレイス・ケリーの話をしていて思い出したのがベルギー出身の女優、オードリー・ヘプバーン(Audrey Hepburn)です。裕福な幼少時代を送ったグレイスと同じ1929年生まれのオードリーは、しかしナチス占領下のオランダで貧しい生活をしていました。グレイスと同じく、決してグラマラスではないスレンダーで清楚な美しさをもったオードリーは、写真モデルとして働きながらバレエのレッスンを受けていましたが、やがて女優としての才能を発揮すると、瞬く間に一流女優への道を進んでいきます。

 51年、オードリーはグレイスが後に「泥棒成金」の撮影で訪れることになるリビエラで「モンテカルロ・ベイビー」の撮影を行いました。そこで女流作家シドニー・ガブリエル・コレットに出会うと、彼女が書いた「ジジ」のブロードウェイ公演で主役を演じることになります。この公演をきっかけに、映画「ローマの休日」の主役を探していたウィリアム・ワイラー監督から声をかけられ、ハリウッド・デビューを飾ることになりました。そしてこのデビュー作でいきなりアカデミー主演女優賞をとったオードリーは、ゲイリー・クーパーやケイリー・グラントとの競演のなかで、その演技力をさらに磨いていったのです。ところで「真昼の決闘」でゲイリー・クーパーと競演したグレイスは、「泥棒成金」でケイリー・グラントとも競演しています。

 「マイ・フェア・レイディ」「麗しのサブリナ」など数々の名作を演じたオードリーでしたが、59歳の時に国連児童基金特別大使を引き受けると、恵まれない子供たちを救うための活動に専念、63歳で他界するまでユニセフの親善大使として貧しい人々のために働きました。

 生まれと死の境遇こそまったく異なったふたりの人生ですが、ちょっと興味深いとは思いませんか?この時代の一流どころのパターンって言ってしまえばそれまでですが・・・。




★ DVD

「上流社会」他、

 「上流社会」は「フィラデルフィア物語」を映画化したグレイス・ケリー最後の主演作。映画の中でビング・クロスビーとデュエットした「トゥルー・ラブ」はミリオン・セラーとなりました。

監督:チャールズ・ウォルターズ
出演:ビング・クロスビー、グレース・ケリー、フランク・シナトラ、ルイ・アームストロング、他



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2010/04/17(土) | 【エッセイ】 | トラックバック(0) | コメント(0)

【エッセイ#28】 「TRUMP」

 大西洋に面したアトランティック・シティー(Atlantic City)。ニューヨーク近郊に10kmも続く海岸線を有するこの街は、1890年頃にはすでに豪華ホテルが並ぶ大リゾート都市でした。しかし高速道路が整備され、誰もが手軽に航空機を利用できる時代になると観光客は全米の街へと散っていき、この巨大リゾート都市は瞬く間に衰退の道を辿ります。観光資源に依存していたニュージャージーは、苦肉の策としてカジノの公認へと踏み切りました。そして1993年には州の観光収入における賭博収入の割合が25%を締め、ラスベガスのそれを越える勢いにまでなりました。


 アトランティック・シティーにいくつものカジノ・ホテルを持つドナルド・トランプ(Donald J. Trump)は、1956年、ニューヨークの住宅開発会社を経営するフレッド・トランプの次男として生まれました。子供の頃から父親の仕事に興味を持ったドナルドは、大学生になる頃にはすでに不動産取引を始めていたそうです。大学を卒業すると本格的に経営に参加しました。カリフォルニアで掘り出し物の不動産を探し歩き、政府からの不動産抵当融資を使って買い取っていました。つまり、現金はほとんど使わない取引をしていたのです。

 当時ドナルドが扱っていた物件は中流といわれる人たちにも手の届く物件ばかりでした。時には賃借人が家賃を踏み倒して逃げるような安アパートさえ扱いました。そんな不動産取引は自分には向かない、ニューヨークに出てゴージャスな高層ビルの取引をしたい。こうして26歳でマンハッタンにオフィスを構えたドナルドは、運転手付きのキャデラックに乗ってニューヨークの街で物件探しをはじめたのです。このときのクルマのナンバープレートは彼のイニシャル「DJT」。後に自分のビルばかりかプライベイト・ジェットやヘリコプターの側面にまで大きく「TRUMP」と文字を入れる「自己ブランド化」作戦は、このとき早くも始まっていたのです。

 ドナルドが最初に手がけた大きな取引はコモドール・ホテルでした。グランド・セントラル駅に隣接するこの古びたホテルの権利を40万ドルで手に入れたのです。1976年当時のニューヨークは不況下にあり、グランド・セントラル駅周辺のホテルはどこも倒産寸前という有様でした。それでもドナルドは「この駅には何千人もの人々が出入りしている。ここは有望な土地だ」と言っています。

 問題は税金でした。駅周辺の土地の固定資産税はとても高額で、ホテルビジネスではとても採算はとれそうもありません。地域再開発を名目にしても、個人の不動産開発業者にはそれほどの減税措置は期待できません。そこでドナルドは考えました。まず自分でホテルを買い取り、それをニューヨーク都市開発公団に長期ローンを組ませて売る。そしてホテルを開発公団から賃貸として借りる。つまり、ホテルを市の所有物にし、自分はそこから借り上げてホテルを運営する。これで年間400万ドルの固定資産税は40年間免除されることになる。つまり、1億6000万ドルの節税だ。ちなみにドナルドが支払う年間の賃貸料は25万ドルだったそうです。

 しかし破綻寸前のホテルに融資してくれる銀行は少なく、ドナルドは資金繰りに苦労しました。それでも強引なまでの交渉術でいくつかの融資をとりつけ、一方、建設費は徹底的に押さえ込んだのです。「強気な交渉」「税金のがれ」と非難されながらも、やっとのことで完成させたホテルは「グランド・ハイアット」と名を変え、大理石のテラス、ブロンズの円柱、4階まで吹き抜けのサン・ガーデンなど、その豪華な建築でニューヨーカー自慢のホテルのひとつになりました。

 さらにドナルドはニューヨークの五番街に超高級コンドミニアム「トランプ・タワー」を建てると、奇抜な宣伝方法で1室50万ドルから1200万ドルで売りさばき、オフィス・スペースにはカルチェやバラセッティなどの一流ブランドをテナントとして迎え入れました。そしてアトランティック・シティには「トランプズ・キャッスル・ホテル&カジノ」を展開、38歳の時の純資産は推定4億ドルにもなっていました。

 その後、92年には不況のあおりで自己破産寸前にまで追い込まれたこともありましたが、持ち前の押しの強さで再び成功物語を再現、2001年には90階建ての高級コンドミニアム「トランプ・ワールド・タワー」を竣工するまでに復活しました。その後カジノ事業が再び破綻しましたが、ドナルドの総資産からすれば大した痛手ではなかったようです。




「The Apprentice」

 ドナルド・トランプがプロデュースするテレビ番組「The Apprentice」がアメリカで大ヒットしました。Apprenticeとは「見習い」のこと。出世をかけて集まったビジネス・エリートたちが、トランプ氏から出される課題をこなしながら競い合います。

 参加者は男女2チームに分かれてトランプ・タワーのスイートルームに泊まり込み。毎週さまざまなビジネスをこなして、売り上げを競い合います。第一回目はなんと、アメリカの子供達が夏休みにやる定番のお小遣い稼ぎ「レモネード売り」でした。他にもジェット機の広告コンテストやフリーマーケットで売り上げを競い合いました。勝利したチームには豪華なご褒美が用意されているのですが、負けるとトランプ氏に呼び出されて、「なにが問題だったか」「責任者は誰か」を追求されます。そして戦犯となった1人が毎週「クビ」になるのです。

 最後に残った勝者はトランプ氏の元でビジネスを習いながら1年間働くことができるのですが、番組のおもしろさはやはり「次は誰がクビになるのか?」です。チーム内での責任のなすりつけ合いや、アメリカ人ならではの自己主張は、たまにちょっと見苦しいことさえありますが、最後に閻魔大王よろしくトランプ氏が指さしながら言い放つ「You're fired」(お前はクビだ)のセリフが大流行、2003~2004年の全米流行語大賞になりました。

 好き嫌いはあるでしょうけれど、ドナルド・トランプがただ者ではないことだけは確かです。ボクが彼に惹きつけられたのはインタビュー記事のこんな話を読んだときでした。不動産の暴落で92億ドルの借金を抱えていた頃についての話です。

インタビュアー
「あれだけの借金を抱えて、毎日心配ではありませんでしたか?」

 トランプ
「心配なんかしている時間があったら、どうやってこの苦境を乗り越えるのか考えるのだ」




★ Website

 「Trump Organization

 ドナルド・トランプっていったい誰よ? という方、まずはこのサイトで彼のド派手さを体験してみてください。




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2010/04/24(土) | 【エッセイ】 | トラックバック(0) | コメント(0)

【エッセイ#29】 「WTC」

 「例えばニューイングランド地方にあるような教会の尖塔が真っ青な空に向かって突き立っているのを見ると、なんか、こう、興奮してくるよね。なぜならその光景はまるで何かに向かって手を伸ばしているような、何か大望を達成しているような感じにさせるからだと私は思うんだ。そしてそういう感情は、我々のありふれた日常生活の中でとっても大切なんだ」(*1)


 建築家ミノル・ヤマサキ(Minoru Yamasaki)は1912年12月1日、シアトルで生まれました。両親は富山県出身の日本人。貧しい家庭で、缶詰工場で働きながら学生時代を送ったそうです。地元のワシントン大学を卒業後、ニューヨーク大学で建築設計士の博士号をとるとエンパイアステイトの設計で知られるShreve, Lamb and Harmon事務所、ロックフェラーセンターを手がけたHarrison, Fouilhoux and Abramovitz事務所などを渡り歩き、1945年にはデトロイトのデザイン建築会社Smith Hinchman & Gryllsのチーフデザイナーに抜擢されました。

 日本による真珠湾攻撃があった1941年にピアニストのテルコ・ヒラサキさんと結婚。当時、戦争のため多くの日系アメリカ人が収容所に集められていましたが、建築家として高い評価を得ていたミノルは収容所に送られることもなく、確実にキャリアを積み重ねていきました。そして1949年、会社の同僚2人と組んで独立。新しい建築事務所はドーム状デザインで知られるセントルイス空港の建設で瞬く間に注目を集めたのです。その後もアメリカ建築家協会(AIA)から4度も表彰を受けるなど、世界的な建築家として認められていきました。


 ニューヨーク州とニュージャージー州の共同出資で運営されている公団「ポート・オーソリティー・オブ・ニューヨーク・アンド・ニュージャージー」(The Port Authority of New York and New Jersey)は、ウォール街に隣接するマンハッタン南部に国際貿易を担う新しい経済地域の開発を計画していました。当時のポート・オーソリティ局長オースティン・トービンと、やはり南部再開発に意欲的だった後のロックフェラー・グループ会長デイビッド・ロックフェラーが中心となり、都市開発のための諮問委員会を設立しました。3人の建築家が集められましたが、彼らのプロジェクトはあまりにも高額な費用を必要としたため却下、かわって指名されたのがミノルでした。

 このプロジェクトのためにミノルは100種類以上にも及ぶ模型を作ったそうです。150階建ての超高層ビルや、いくつものタワーからなるビル群といった都市開発案のなかから選ばれたのは、プラザと呼ばれる広場を囲むように大小6つのビルが建ち並んだモデルでした。この中で最も象徴的だったのは、410mの高さをもつ第1ビルと第2ビルです。110階建てのこのツインタワーに入ると巨大な吹き抜けのロビーが広がっていました。柱を極力減らし、オフィス・スペースを最大限に得られるように工夫された建物は、ビルの重さを支える中央のチューブ構造と風圧を支える外側の鉄格子から構成され、ダブル・チューブ構造、もしくは鳥かご構造などと呼ばれていました。予想を越えた非常識な負荷が掛けられなかったら、あと100年は問題なくビルを支えていただろうと言われています。

 こうして生まれたWorld Trade Centerには5万人の人が働いていました。機能性を重視したモダン建築に人間の安らぎを取り入れたミノルらしいこの作品は、ニューヨークだけでなくアメリカ合衆国の象徴のひとつとして今でも愛され続けています。


 「その辺を歩いている普通の人にとって高層ビルの何がすごいのかって言ったらやっぱり、その空に向かってそびえ建つ感覚とその高さだよね。だから、天に舞い上がるような感覚、もしかしたら中世の時代に大聖堂の中へ歩いて行く男が持っていたような大望感と言いかえられるかもしれない」(*2)

(*1,2)Minoru Yamasaki interview. 1959, August. Archives of American Art, Smithsonian Institution.「ミノル・ヤマサキの建築デザイン模型展示会」にて収録されたインタビューより。
翻訳・著作:COLONGLOBAL.COM





「ビューティフル!」

 一ノ宮賢治さんはミノル・ヤマサキの元で働いたことのある建築設計士です。大学を卒業後ひとりアメリカに渡り勉強のためにと無給でとある建築事務所に入りますが、そこは田舎の牧場地帯にありました。ニューヨークのビル街にうもれて仕事をすることを夢見ていた一ノ宮さん、ある日、小さなクルマでニューヨークへと向かいます。しかし仕事に就けるあてもなく、日本からの持参金も底をついて途方にくれていました。

 何件かの建築事務所に「雇ってもらえないか?」と手紙や電話で売り込んだところ、「ちょうど人を探しているから明日からでも来てくれ」と言ってきたのがミノル・ヤマサキの事務所でした。70人ものスタッフが働くオフィスはデトロイトの高級住宅街のなかにありました。ちょうどWTCの仕事が舞い込んできた頃で、オフィスはものすごい活気に満ちていたそうです。

 一番の想い出はミノル・ヤマサキから褒められるときの「ビューティフル!」という言葉だそうです。模型を作っていても、それが美しくないと何も言わずに素通りしていくだけ。しかし、会心の出来のときには「ビューティフル!」ととても喜んでくれたそうです。

 一ノ宮さんはツインタワーの足元のアーチを担当、何百もの模型を作ったそうです。

参考文献:月刊「建築知識」



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