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【エッセイ#22】 「Remember the Alamo!」

 抜群の晴天率と温暖な気候をもつテキサス州サンアントニオ。のんびりと休暇を過ごす観光客の多いこの街に「アラモの砦」はあります。アラモはもともとスペイン人の宣教師によってつくられた教会でした。教会といっても、ネイティブ・アメリカンたちをカトリックに改宗させ、さまざまな知識や技術を伝えていくのが主な目的でした。

 1800年代初頭、メキシコ領だったアラモは首都から遠く離れていたためメキシコ政府の支配力も十分ではなく、いつしか町にはアメリカからの商人が多く入植するようになっていました。このため経済摩擦からアメリカとメキシコの関係は悪化していきます。やがてテキサスとして独立の機運が高まると、メキシコ軍はアラモを要塞としてこれに応戦、度重なる争奪戦の末、1836年2月にアラモを占拠していたのはわずか200人足らずのアメリカ人たちでした。

 デイビット・クロケット(David Crockett)が12人の仲間を率いてアラモの戦いに参戦したときには、アメリカ軍の物資弾薬は底をつきかけていました。一番近くのアメリカ統治下にある街ゴンザレスまでは70マイルもあります。ついにアラモは3000人を越えるメキシコ軍に包囲され、彼らは絶体絶命の危機に追いつめられます。


 デイヴィーの愛称でアメリカ人に親しまれているフロンティアの英雄デイビット・クロケットは、1786年、テネシー東部の村に生まれました。父親は農場や酒場を経営しますがうまくいかず、10代のデイヴィーは父親の借金を返すために働かなければなりませんでした。20歳で結婚すると、当時の多くの貧しい家庭がそうであったように、新たな開拓地、フロンティアを求めて西へと移動する生活を送っていました。ところが、無教養で貧しいけれど冗談のセンスと人の良さで人望を集め、35歳でテネシー州議会に当選しました。さらに「おまえみたいな冗談のようなヤツが政治家としてワシントンに行ったら、さぞかし東部の人間は驚くだろうな」という冗談を真に受けて下院議員に立候補したのですが、なぜか当選してしまったのです。

 ミシシッピー川に面したテネシー州最西部の郡から猟師の格好でワシントンにやってきた素人政治家は、酷い訛のある英語で繰り出す皮肉や冗談が受け、瞬く間に知名度をあげていきました。しかし、デイヴィーの話すおもしろい逸話は、そのほとんどがホラ話だったそうです。

 軍隊の上官として、また同じテネシーの出身者として慕っていた民衆の政治家アンドリュー・ジャクソンに共感して民主党に所属していたデイヴィーですが、同じ民衆の政治家とはいえ、アンドリュー・ジャクソンとデイヴィーでは育ちも家柄もまったく異なっていました。開拓民に有利な農地提供を訴えていたデイヴィーは、すぐにジャクソンと意見がぶつかりはじめます。そしてジャクソンが大統領に就任すると、もはやデイヴィーには打つ手なし。大統領を批判して民主党を離れた素人政治家は、もはや選挙に勝つことはできませんでした。

 ワシントンを去ったデイヴィーは、再びフロンティアを求めて西に向かいます。その時の捨てゼリフは当時のテキサスをうまく表現していたかもしれません。

「有権者はみんな地獄に行くがいい。オレはテキサスに行く」。

 こうしてテキサスにやってきたデイヴィーは、そこで独立運動に出会います。これこそ名誉挽回の大きなチャンスとばかりに参戦したまではよかったのですが、アメリカ軍はアラモの砦でメキシコ軍に囲まれてしまったのです。

 13日間に渡る激戦の後、デイヴィー達は全滅、アラモの砦はメキシコ軍に落とされました。しかしアメリカ開拓民たちの英雄デイヴィー・クロケットの名と共に「アラモを忘れるな!」の呼び声があがると、アメリカ軍は一気に攻め返し、サンジャシントの戦での勝利によりテキサスを占領します。これをきっかけに勃発したメキシコ戦争で勝利したアメリカは、さらにニューメキシコとカリフォルニアを領土とすると、イギリスとの協議によって手に入れたワシントン、オレゴンを含めた大陸国家となったのです。


 ところで、サンジャシントの戦の後、テキサスは一時期「テキサス共和国」として独立しました。なぜすぐに合衆国に加わらなかったのでしょうか?これには奴隷制度、つまり経済問題と自由国家という「本音と建前」の問題が影響していたのです。結局、テキサス共和国は独立後わずか9年で、経済的な理由から奴隷容認の州としてアメリカ合衆国の一部になったのです。




「西部とフロンティア」

 アメリカについて語るときの頻出キーワードに「西部」と「フロンティア」という言葉があります。本来、アメリカ人にとって「西部」といったら、それはアメリカ独立当時の13州以外の西の地域すべてを指しました。

 当初はアパラチア山脈からミシシッピ川あたりまでが西部として知られていましたが、その後開拓を進めていくうちに、それはロッキー山脈まで広がり、やがては西海岸にまで到達します。現在ではこれら「西部」の地域を、中西部、北西部、南西部、西海岸というように区切っています。

 もうひとつのキーワード「フロンティア」とはどういう意味なのでしょうか?アメリカ人にとって「フロンティア」とは「開拓線」もしくは「辺境」などといった意味があるようです。つまり、既存の土地と未開の土地との境が「フロンティア」だと思っていいようです。

 開拓時代の合衆国政府による定義では「1平方マイルに6人以下の土地との境界線をフロンティアとする」とされています。もっとも、一般的に「フロンティア」と言う場合には、線ではなく、その地域を指します。つまり、1平方マイルに6人以下の土地と接している地域が「フロンティア」だと思っていいのでしょう。

 アメリカ独立当時、13州のうち西側に面した州を「フロンティア」としてどこまでも横に延ばしていくことができました。開拓民達は主に農業で暮らしを立てていたのですが、生活がうまくいかなくても他人の成功を羨むこともなく、ただその土地を捨て、新たに西を目指して行けばよかったのです。そこでは地位も名誉もなんの役にも立ちませんでした。農業に適した土地を見極める目と、狩りの腕がすべての実力社会です。アメリカの西部開拓民とは、成功を求めてどこまでも西へと進む農耕と酪農の民でした。

 農家を手伝いながら狩りで取った毛皮を商人に売っていたデイヴィー・クロケット。政治家として農民の代弁者となり、テキサスの独立戦争で戦死した「フロンティアの英雄」として、彼の武勇伝は今でもアメリカ人の間に語り継がれているのです。




★ DVD

アラモ 特別版

 アラモ 特別版のDVDです。昔、ジョン・ウェインが監督・主演で映画化したのもありました。



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2010/03/13(土) | 【エッセイ】 | トラックバック(0) | コメント(0)

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