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【エッセイ#27】 「Sexual Elegance」

 アメリカ独立の地、ペンシルバニア州フィラデルフィア。かつて独立宣言が採択され「自由の鐘」が鳴り響いたこの街に、グレイス・ケリー(Grace Patricia Kelly)は生まれました。1929年11月12日のことです。狂乱の20年代が終わりを告げ、まもなく世界大恐慌の発端となる不況がやってこようとしていましたが、グレイスの父は建築関係の仕事で成功を収め、一家は裕福な暮らしを続けることができました。

 ケリー家は富だけではなく、政治やスポーツの世界でも成功を納めていました。フィラデルフィアの市長選に立候補したこともある父はボートのオリンピック金メダリスト。グレイスの兄弟や息子も、後に金メダルを得る活躍をします。そんな一家の中にあって内気で病弱だったグレイスは、スポーツのかわりにダンスやバレエ、ピアノ、声楽を習い、12歳でアマチュアの劇団に参加、叔父ジョージ・ケリーの応援を受けながら演技を習い始めます。

 スポーツの苦手なグレイスを父親はあまりかわいがりませんでした。どうにかスポーツ以外のことで父に褒められたい、そんな思いがグレイスを演劇の世界へと駆り立てたようです。高校を卒業すると1人ニューヨークへと向かったグレイスは、モデルだった母親譲りの美貌を活かしてモデルやコマーシャルの仕事をしながら生活費を稼ぎました。そしてアメリカン・アカデミー・オブ・ドラマティック・アーツに通いながら演技を磨いたのです。

 グレイスの女優としての才能が認められるまでに、そう時間はかかりませんでした。ブロードウェイの舞台に端役で出ると、すぐさま20世紀フォックスのスカウトから声がかかります。1951年の映画「14時間」(Fourteen Hours)でハリウッド・デビューを飾ると、翌年は「真昼の決闘」(High Noon)でゲイリー・クーパーと競演。その演技力を認められると今度はMGMから専属契約の誘いが来ました。そして53年の「モガンボ」(Mogambo)でアカデミー助演女優賞にノミネートさると、映画界でその地位を確かなものにしたのです。

 グレイスのもつ清楚な魅力のなかに女性のセクシーさを見いだしたアルフレッド・ヒッチコックは、彼女を「セクシャル・エレガンス」とたたえ、54年に「ダイヤルMを廻せ」(Dial "M" for Murder)と「裏窓」(Rear Window)に、翌55年には「泥棒成金」(To Catch A Thief)に起用するほどに彼女を気に入っていました。またグレイス自身は54年にジョージ・シートン監督の「喝采」(The Country Girl)でゴールデン・グローブ賞とアカデミー賞のそれぞれで主演女優賞に輝き、女優としての頂点を極めようとしていたのです。

 瞬く間に大女優への階段を駆け上っていったグレイスでしたが、その後なかなか主演作に恵まれませんでした。そんな時、運命の出会いがやってきたのです。55年のカンヌ映画祭で「喝采」が上映されることが決まるとグレイスは南フランスを訪問します。そこでモナコ王国のレーニエ大公(Rainier III de Monaco)に出会うと、ふたりは瞬く間に恋に落ち、翌56年に結婚しました。フィラデルフィア出身のアメリカ人女優が、一国の王妃になったのです。

 フランス語も話せず、王室の生活にもなかなか慣れなかったグレイスは、はじめの数年間をとても寂しく過ごしたそうです。巷では、モナコの話題づくりのための政略結婚ではないのか?という噂まで立つことがありました。それでも3人の子供に恵まれた頃には公務もすっかりこなせるようになり、モナコでの生活を楽しむようになります。そしてグレース王妃基金やモナコ・バレエ団などの設立を通して芸術の発展に貢献しました。

 運命の日は再び突然訪れます。1982年9月13日、グレイスは娘のステファニーとのドライブの途中、カーブを曲がりきれずに崖から転落、53歳の若さで亡くなりました。グレイスとステファニー、どちらが運転していたのか、事故原因はなんだったのか、すべては未だに謎のままです。




「女優の生涯」

 グレイス・ケリーの話をしていて思い出したのがベルギー出身の女優、オードリー・ヘプバーン(Audrey Hepburn)です。裕福な幼少時代を送ったグレイスと同じ1929年生まれのオードリーは、しかしナチス占領下のオランダで貧しい生活をしていました。グレイスと同じく、決してグラマラスではないスレンダーで清楚な美しさをもったオードリーは、写真モデルとして働きながらバレエのレッスンを受けていましたが、やがて女優としての才能を発揮すると、瞬く間に一流女優への道を進んでいきます。

 51年、オードリーはグレイスが後に「泥棒成金」の撮影で訪れることになるリビエラで「モンテカルロ・ベイビー」の撮影を行いました。そこで女流作家シドニー・ガブリエル・コレットに出会うと、彼女が書いた「ジジ」のブロードウェイ公演で主役を演じることになります。この公演をきっかけに、映画「ローマの休日」の主役を探していたウィリアム・ワイラー監督から声をかけられ、ハリウッド・デビューを飾ることになりました。そしてこのデビュー作でいきなりアカデミー主演女優賞をとったオードリーは、ゲイリー・クーパーやケイリー・グラントとの競演のなかで、その演技力をさらに磨いていったのです。ところで「真昼の決闘」でゲイリー・クーパーと競演したグレイスは、「泥棒成金」でケイリー・グラントとも競演しています。

 「マイ・フェア・レイディ」「麗しのサブリナ」など数々の名作を演じたオードリーでしたが、59歳の時に国連児童基金特別大使を引き受けると、恵まれない子供たちを救うための活動に専念、63歳で他界するまでユニセフの親善大使として貧しい人々のために働きました。

 生まれと死の境遇こそまったく異なったふたりの人生ですが、ちょっと興味深いとは思いませんか?この時代の一流どころのパターンって言ってしまえばそれまでですが・・・。




★ DVD

「上流社会」他、

 「上流社会」は「フィラデルフィア物語」を映画化したグレイス・ケリー最後の主演作。映画の中でビング・クロスビーとデュエットした「トゥルー・ラブ」はミリオン・セラーとなりました。

監督:チャールズ・ウォルターズ
出演:ビング・クロスビー、グレース・ケリー、フランク・シナトラ、ルイ・アームストロング、他



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2010/04/17(土) | 【エッセイ】 | トラックバック(0) | コメント(0)

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