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【エッセイ#39】 「イエロージャーナリズム」

 ローカル新聞「ニューヨーク・ワールド紙」の連載漫画の主人公「イエロー・キッド」は、1896年のニューヨークで一番の人気者でした。最新技術の「色刷り印刷」を使って、生意気で暴れん坊のイエロー・キッドのマントは黄色く染められていました。金持ちの大好きなゴルフや犬の品評会を茶化して笑いのネタにするこの漫画は、庶民の新聞「大衆紙」である「ワールド紙」にはぴったりの連載だったのです。

 新聞が知識階級の人々だけのものだった当時、「大衆紙」の登場は新たなメディアの誕生でもありました。そして権力者たちの不正や汚職の暴露記事で記録的な発行部数を更新していく「ワールド紙」に対抗して、犯罪ネタや潜入取材で刺激的な記事を売り物にした「ニューヨーク・モーニング・ジャーナル紙」が現れました。まだ色刷り印刷の設備を持っていなかった「ジャーナル紙」は、「イエロー・キッド」の漫画家を引き抜くために最新の印刷機を導入、漫画家どころか編集長まで一緒に「ワールド紙」から奪っていきました。こうして両紙の常軌を逸した部数競争が始まったのです。

 「ワールド紙」の経営者はジョゼフ・ピューリッツァ(Joseph Pulitzer)でした。ハンガリー生まれのジョセフは、南北戦争で北軍に加勢するためにアメリカにやってきました。戦争はその後すぐに終わりましたが、彼はミズーリ州のセントルイスでドイツ語新聞「ウェストリッヒ・ポスト」に勤務、ジャーナリストとして名をあげていきました。やがて共和党に参加したジョセフはミズーリ州議会議員に選任されます。1869年のことでした。

 資金力を得たジョセフは、1872年に「ウェストリッヒ・ポスト」を、78年には「セントルイス・ディスパッチ紙」を買収しました。そして発行数2000部ほどの両紙を統合して「セントルイス・ポストディスパッチ紙」とすると、発行部数を8万5000部にまで延ばしていきました。

 政府の不正を暴露し徹底的に戦う。そんな「セントルイス・ポストディスパッチ紙」のスタンスは庶民のあいだで話題となり、新聞社としての地位を確立していったのです。そして1883年、毎年4万ドルの赤字を出していた「ニューヨーク・ワールド紙」を35万ドルで買収すると、瞬く間に発行部数100万部を越える、アメリカ最大の大衆紙に育て上げました。

 「ワールド紙」の読者は、毎年のように夢を抱いてアメリカにやってくる大量の移民達でした。金持ちや権力者の汚職を暴き、貧しい庶民の目で書かれた記事は彼らの心をとらえました。大きな見出しとわかりやすい記事が、ますます多くの読者を集めていき、それまで知識階級を読者にしていた「ニューヨーク・サン紙」などのライバル紙をことごとく蹴散らしていったのです。

 一方、「ザ・モナーク・オブ・ザ・デイリーズ」の経営者、ウィリアム・ランドルフ・ハースト(William Randolph Hearst)が「ニューヨーク・モーニング・ジャーナル紙」を買収したのは1895年のことでした。凶悪犯罪や特ダネに力を入れ、よりセンセーショナルな大衆紙を目指して発行部数を延ばし、「ワールド紙」のライバルとして競争を挑んだのです。同時に「ワールド紙」の連載漫画の主人公、イエロー・キッドの大ファンでもあったウィリアムは、この漫画の原作者をヘッドハンティングしてしまいます。人気キャラクターを奪われてはかなわないとばかりに、「ワールド紙」のジョセフは模写の上手な漫画家を新たに雇い、「イエロー・キッド」の連載を続けました。この時期、両紙には作者の違う同じ漫画が連載されていたのです。

 「ワールド紙」対「ジャーナル紙」の対決が激しくなるに従って、センセーショナルではあるが、くだらない内容の記事が増え始めました。人々は「イエロー・キッド」の名をもじって、両紙の書き散らす記事を「イエロージャーナリズム」と呼んで楽しんでいました。

 「イエロージャーナリズム」はキューバ独立戦争を機にますます加熱していきます。独立を望むキューバの正当性と、力でそれを押さえ込もうとするスペイン軍。「ワールド紙」と「ジャーナル紙」は共に、いかにスペイン軍がキューバに対して残虐な行為を行っているかを連日報道し続けました。その内容は誇張されキューバへの同情とともに、アメリカはこれを支援するべきだと書き立てていきました。そしてハバナでアメリカの軍艦メインが爆発事故を起こすと、両紙は「スペイン人による策略だ」と報道、「打倒スペイン」のスローガンと共に、アメリカの戦争介入を訴え続けたのです。

 結局アメリカは1896年にスペインとの開戦を宣言。戦争はアメリカの圧勝に終わり、キューバは独立しました。後にこの戦争は、発行部数競争の末に新聞が作り出した戦争だと言われるようになりました。ある時キューバに派遣されていた記者が「ハバナは平和で戦争状態ではない。記事は書けない」と報告すると「ジャーナル紙」のウィリアム・ハーストは「戦争は私が作る。おまえは記事を作れ」と言ったという話さえ残っています。

 この事件をきっかけに、ジョゼフ・ピューリッツァは記事の正確性を優先するよう「ワールド紙」の方針を変更していきました。正義と真実を伝えるその姿勢は変わらず、後にパナマ運河開発をめぐるリベート問題でルーズベルト大統領と裁判で争うことさえありましたが「新聞は真実を伝えるという絶対的自由がある」というジョゼフの主張は、いまでもアメリカのジャーナリストたちのなかに生きています。

 コロンビア大学大学院のジャーナリズム科と、ジャーナリズムのアカデミー賞と呼ばれる「ピューリッツァ賞」は、彼の死後、遺言に従って設立されました。




「ジョゼフの遺言」

 イエロージャーナリズムと呼ばれた自らの報道姿勢に危機を感じたのか、ジョゼフ・ピューリッツァは遺言の中で、ジャーナリスト育成のため、コロンビア大学の大学院にジャーナリズム科を新設すること、そして優れた報道と文学のために「ピューリッツァ賞」の創設を書き残していました。200万ドルの寄付金がコロンビア大学に残され、その一部がジャーナリズム科で学ぶ学生のための奨学金の基金、そして「ピューリッツァ賞」の賞金に使われました。

 1917年の創設時にはジャーナリズムと文学の2分野だけだった「ピューリッツァ賞」でしたが、現在では報道写真や論説など全12部門からなるジャーナリズム分野と、小説、アメリカ史など6部門からなる文学分野に加え、音楽分野でも賞を出しています。

 特に1942年から新設された報道写真部門は国際的に注目を浴びるようになりました。硫黄島で星条旗を掲げるアメリカ兵をはじめ、ケネディ暗殺の容疑者オズワルドの射殺シーン、ワールド・トレードセンターの瓦礫と星条旗を掲げる消防士の写真がなどが知られています。




★ Website

The Pulitzer Prizes

「ピューリッツァ賞」の歴史解説や過去の受賞記録が見られます。1995年以降は、受賞作品も納められています。



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2011/03/31(木) | 【エッセイ】 | トラックバック(0) | コメント(0)

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