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【エッセイ#41】 「ディマジオの恋」

 首位打者2回、本塁打王2回、打点王2回、そして1941年には56試合連続安打の大記録を残した歴史的メイジャー・リーガー、ジョー・ディマジオ(Joe DiMaggio)。ヤンキースで13年間プレイしたこの年俸10万ドル選手は、1951年に現役を引退しました。そして離婚して独身に戻ったばかりのジョーに、このあと運命的な出会いが待っていたのです。

 アメリカの英雄でありながら派手な生活を嫌い、マスコミに追い回されるのを嫌い、生真面目で内気な性格だったジョーが初めて彼女を目にしたのは、ある新聞記事の写真の中でした。メイジャーリーグの選手たちと一緒に写っていたそのブロンドの女性とぜひとも会ってみたい。ジョーは彼女が誰なのか友達に尋ねてまわり、昔の友達デイビット・マーチが彼女のことをよく知っているとわかるとすぐに紹介してくれないかと頼み込みました。

 女性の名前はノーマ・ジーン・モーテンソン(Norma Jeane Mortenson)。ハリウッドで人気上昇中の新人女優でした。野球にはまったく興味がなく、「ディマジオ」という名前さえも知らなかったそうです。それでもデイビットやほかの友人も一緒なら、ということでジョーに会うことを約束してくれたのです。

 ノーマははじめ、趣味の悪い服を着た、キザでアタマの悪い男がやってくるものと信じこんでいました。野球選手のことが大嫌いだったのです。だから「紳士的で控えめなジョーを見たら、きっと気が変わるかもしれない」とデイビットは思いました。しかし翌日、デイビットがノーマに電話して聞いた感想は「興味ないわ」の一言でした。

 それでもジョーはあきらめずに、毎日のようにノーマに電話をかけ続けました。2週間ほどしてあきらめかけた頃、ようやくノーマからデートの約束をもらうことができたのです。

 「ジョー・ディマジオのデート」はゴシップ紙の最高の標的でした。ふたりは理想的なカップルとして報道され、誰もが羨む関係にみえました。実際、前にも後にも多くの男性とつきあっていたノーマにとって、ジョーはとりわけ頼れる男だったようです。しかしふたりの間には、はじめから問題があったのも事実です。生真面目なジョーは、胸元が大きくあいた服をノーマが着ることがイヤでたまりませんでした。控えめな生活を好む彼でしたが、一方でノーマは、マリリン・モンロー(Marilyn Monroe)という芸名で、ハリウッドから世界的スターへの道を昇り始めていたのです。

 1954年1月、ふたりは結婚しました。そして幸せの絶頂にあったノーマは後に女優としての彼女の人気を絶対的なものにした映画「七年目の浮気」の撮影に入ります。ところがこれが悲劇の始まりでした。マンハッタンの一角で行われた撮影は、映画の宣伝も兼ねて多くの取材陣と見物客が見守っていました。地下鉄の通風口から巻き上がる風に、マリリンのスカートが大きくめくりあがる、あの有名なシーンです。そしてジョーは、この撮影に我慢がならなかったのです。ノーマが性的な見せ物になることに腹を立てていたジョーは、時に彼女に暴力を振るうことさえあったそうです。結局、ふたりは結婚から9ヶ月目で離婚しました。

 そのあとノーマは作家のアーサー・ミラーと結婚しますが、仕事仲間の失脚や流産という辛い経験が続き、薬物に手を出すようになったのです。ハリウッドに戻ってからジョーと仲直りしますが、シナトラやケネディ大統領とのつきあいもあり、やがてアーサーとの夫婦生活も壊れていきました。そして薬物中毒が進み36歳でこの世を去りました。

 身内のいないノーマの葬儀を取り仕切ったのはジョーでした。ケネディやシナトラの関係者は一切寄せ付けず、ひとり棺の前で泣き続けていたそうです。それから20年間、毎週火曜日と土曜日に、ロサンゼルスのウエストウッド・メモリアル・パークにあるノーマの墓前に赤いバラを届け続けました。




「離婚、そして後日談」

 ふたりが離婚したすぐ後、ジョーはノーマにやりなおしを求めていました。ノーマにしても、異常なまでの彼の嫉妬と暴力に嫌気がさしていたとしても、ジョーに対する愛情は変わっていなかったのかもしれません。翌年、問題となった映画「七年目の浮気」の初日、ジョーはノーマを連れ立ってマスコミの前に姿を現しました。それでもふたりの仲は、元へはもどらなかったのです。

 その後、彼らは友人としてのつき合いを再開しています。フロリダやニューヨークに姿を現し、マスコミに互いのことを話しています。しかしノーマは薬物中毒に冒され、政治やマフィア社会の犠牲者となり、ひとり謎の死を遂げました。

 ジョーはそれから25年のあいだ、再婚することはありませんでした。ノーマとの想い出を語ることもなく、彼女の私生活を暴露することもありませんでした。あるとき「インタビューに応じてくれたら5万ドル払う」という雑誌社からのオファーがありましたが、ジョーの答えは変わりませんでした。

 「愛の思い出は、カネでは買えない」



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2011/04/17(日) | 【エッセイ】 | トラックバック(0) | コメント(0)

【エッセイ#40】 「Indy 500」

 毎年5月の最終月曜日はメモリアルデー、戦没将兵記念日のためにアメリカのほとんどの州で祝日になります。土曜日から3連休となるこのロング・ウィークエンドに、世界で最も歴史のあるフォミュラーカー・レース、インディー500マイル・レース(Indianapolis 500)が行われます。会場はインディアナ州インディアナポリスにある「インディアナポリス・モーター・スピードウェイ」(The Indianapolis Motor Speedway)。長短4本のストレートと4つのコーナーをもつ全長2.5マイルの長方形型のこの高速サーキットの歴史は1909年にまで遡ります。

 まだ自動車が一般の人々の生活に浸透していない時代、インディアナポリス・モーター・スピードウェイは完成しました。その2年後の1911年に、はやくも第1回インディー500マイル・レースが開催されたのです。以来、第一次大戦中の1917年と1918年、第一次大戦中の1942年から1945年をのぞき毎年続けられてきたこのレースは、同じサーキットで開催されている世界で最も古いレースとなりました。

 500マイルという距離は、スピードだけではなく、レーサーの体力、集中力そしてマシンの耐久性をも要求します。また開催当時のクルマの性能で、午前中にスタートし、夕暮れまでにはゴールできる適切な距離でもありました。第1回大会の優勝者レイ・ハラウンは6時間42分8秒のタイムでチェッカーを受けました。まさに主催者の思惑通りのタイムだったのです。時速220マイル(時速約350キロ)を超えるレースを観戦している今の私たちから見れば、当時のレースはずいぶんのんびりとしたものだったことでしょう。

 現在インディー500はIRL(Indy Racing League)Indycar Seriesによって運営されていますが、もともとはUSAC(United States Auto Club)の管轄下にありました。ところが1980年、参加チームのオーナーが集まりCART (Championship Auto Racing Teams:現在のChanp Car World Series)という独自の組織を結成、新たなレース・イベントを開催し始めます。ホンダやトヨタをはじめ、メルセデス、シボレー、フォードによるエンジン開発競争はターボチャージャー付きの高出力マシンを生みだし、迫力あるレースは人気を集めました。しかし過激なまでのマシン開発競争に多くのチームは資金的に苦しみ始めます。そして90年代はじめ、より経済的にレースに参加できるIRLが誕生したのです。

 IRLのレース・レギュレーションは、過剰な費用を必要とせずチームごとに極端なマシン性能の差がでないように工夫されています。たとえばクルマのシャーシはイタリアのダラーラ製、もしくはアメリカのパノス製の2種類から選択。エンジンはシボレー、ホンダ、トヨタの3社からの選択と、決められたもののなかから各チームが選んで購入していきます。そしてタイヤはファイアストン、ギアボックスはXトラック製のみの供給。エンジン開発条件もメタノール燃料の3リットル自然吸気V8で最高回転数は10,300rpmなどと細かく決められています。さらにシーズン中はエンジンの基本設計の変更はできません。それでもレース用に限界までチューニングされたエンジンは、重量わずか700kgのボディに700馬力近くのパワーを与えます。

 IRLが開催したレースは、1996年には年間わずかに3レースだけでした。そのひとつがインディー500だったのですが、インディー500のスタート順位は他の2レースの結果で決められたために、参加チームはIRLの主催するすべてのレースに出場登録する必要があったのです。CARTは「ミシガン・インターナショナル・スピードウェイ」で500マイルレースを開催するなどしてこれに対抗しましたが、歴史のあるインディー500に出場したいドライバーたちは次々と IRLへと移っていきました。

 こうして有力チームのほとんどが参加するようになったIRLは、2003年にその名称をIRL Indycar Seriesと変え、2005年には「インディアナポリス・モーター・スピードウェイ」でのインディー500はもちろん、日本の「ツインリンクもてぎ」を含む全17戦が行われました。




「NASCAR」

 「ル・マン24時間」や「F1モナコ」とともに世界の3大レースと呼ばれる「インディー500」は、40万人以上の観客を集め、賞金総額は1000万ドル以上のアメリカ最大のモータースポーツ・イベントです。がしかし、アメリカで一番人気のあるモータースポーツは、もしかしたらインディーカーではなくて、NASCARかもしれません。

 NASCARはデイトナビーチの浜辺で改造車をもちよってスピードを競い合っていたのがそのはじまりです。テネシーの不良連中がはじめた改造車レースはいつしか全米に広がり、やがてデイトナビーチの砂浜と一般道を勝手につないで作った楕円コースに集まるようになりました。

 1950年代の後半頃、市販車ベースのクルマ(ストック・カー)によるレースを運営する組織、National Association for Stock Car Auto Racing (NASCAR)が発足すると、デイトナビーチから数マイルほど内陸に、正式にコースを建設。現在では「デイトナ500」の開催コースとして知られています。

 NASCARにはいくつかのカテゴリーがあり、市販乗用車をロールバーなどで補強したものから、トラック・ベース、さらに見かけは市販車でも、じつは軽量ボディにパワフルなエンジンを積んだものもあります。

 総重量1トンを越えるボディに7500rpm付近で500馬力を越えるパワーを発生する5.8リットルのV8を積んで、時速300キロ近くで楕円コースを爆走するNASCARこそ、まさにアメリカンなカーレースです。




★ Websites

Indy Car Series

 Indy Car Seriesのオフィシャル・サイト。細かなレギュレーションをはじめレース日程、コースの紹介があります。



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2011/04/03(日) | 【エッセイ】 | トラックバック(0) | コメント(0)

【エッセイ#39】 「イエロージャーナリズム」

 ローカル新聞「ニューヨーク・ワールド紙」の連載漫画の主人公「イエロー・キッド」は、1896年のニューヨークで一番の人気者でした。最新技術の「色刷り印刷」を使って、生意気で暴れん坊のイエロー・キッドのマントは黄色く染められていました。金持ちの大好きなゴルフや犬の品評会を茶化して笑いのネタにするこの漫画は、庶民の新聞「大衆紙」である「ワールド紙」にはぴったりの連載だったのです。

 新聞が知識階級の人々だけのものだった当時、「大衆紙」の登場は新たなメディアの誕生でもありました。そして権力者たちの不正や汚職の暴露記事で記録的な発行部数を更新していく「ワールド紙」に対抗して、犯罪ネタや潜入取材で刺激的な記事を売り物にした「ニューヨーク・モーニング・ジャーナル紙」が現れました。まだ色刷り印刷の設備を持っていなかった「ジャーナル紙」は、「イエロー・キッド」の漫画家を引き抜くために最新の印刷機を導入、漫画家どころか編集長まで一緒に「ワールド紙」から奪っていきました。こうして両紙の常軌を逸した部数競争が始まったのです。

 「ワールド紙」の経営者はジョゼフ・ピューリッツァ(Joseph Pulitzer)でした。ハンガリー生まれのジョセフは、南北戦争で北軍に加勢するためにアメリカにやってきました。戦争はその後すぐに終わりましたが、彼はミズーリ州のセントルイスでドイツ語新聞「ウェストリッヒ・ポスト」に勤務、ジャーナリストとして名をあげていきました。やがて共和党に参加したジョセフはミズーリ州議会議員に選任されます。1869年のことでした。

 資金力を得たジョセフは、1872年に「ウェストリッヒ・ポスト」を、78年には「セントルイス・ディスパッチ紙」を買収しました。そして発行数2000部ほどの両紙を統合して「セントルイス・ポストディスパッチ紙」とすると、発行部数を8万5000部にまで延ばしていきました。

 政府の不正を暴露し徹底的に戦う。そんな「セントルイス・ポストディスパッチ紙」のスタンスは庶民のあいだで話題となり、新聞社としての地位を確立していったのです。そして1883年、毎年4万ドルの赤字を出していた「ニューヨーク・ワールド紙」を35万ドルで買収すると、瞬く間に発行部数100万部を越える、アメリカ最大の大衆紙に育て上げました。

 「ワールド紙」の読者は、毎年のように夢を抱いてアメリカにやってくる大量の移民達でした。金持ちや権力者の汚職を暴き、貧しい庶民の目で書かれた記事は彼らの心をとらえました。大きな見出しとわかりやすい記事が、ますます多くの読者を集めていき、それまで知識階級を読者にしていた「ニューヨーク・サン紙」などのライバル紙をことごとく蹴散らしていったのです。

 一方、「ザ・モナーク・オブ・ザ・デイリーズ」の経営者、ウィリアム・ランドルフ・ハースト(William Randolph Hearst)が「ニューヨーク・モーニング・ジャーナル紙」を買収したのは1895年のことでした。凶悪犯罪や特ダネに力を入れ、よりセンセーショナルな大衆紙を目指して発行部数を延ばし、「ワールド紙」のライバルとして競争を挑んだのです。同時に「ワールド紙」の連載漫画の主人公、イエロー・キッドの大ファンでもあったウィリアムは、この漫画の原作者をヘッドハンティングしてしまいます。人気キャラクターを奪われてはかなわないとばかりに、「ワールド紙」のジョセフは模写の上手な漫画家を新たに雇い、「イエロー・キッド」の連載を続けました。この時期、両紙には作者の違う同じ漫画が連載されていたのです。

 「ワールド紙」対「ジャーナル紙」の対決が激しくなるに従って、センセーショナルではあるが、くだらない内容の記事が増え始めました。人々は「イエロー・キッド」の名をもじって、両紙の書き散らす記事を「イエロージャーナリズム」と呼んで楽しんでいました。

 「イエロージャーナリズム」はキューバ独立戦争を機にますます加熱していきます。独立を望むキューバの正当性と、力でそれを押さえ込もうとするスペイン軍。「ワールド紙」と「ジャーナル紙」は共に、いかにスペイン軍がキューバに対して残虐な行為を行っているかを連日報道し続けました。その内容は誇張されキューバへの同情とともに、アメリカはこれを支援するべきだと書き立てていきました。そしてハバナでアメリカの軍艦メインが爆発事故を起こすと、両紙は「スペイン人による策略だ」と報道、「打倒スペイン」のスローガンと共に、アメリカの戦争介入を訴え続けたのです。

 結局アメリカは1896年にスペインとの開戦を宣言。戦争はアメリカの圧勝に終わり、キューバは独立しました。後にこの戦争は、発行部数競争の末に新聞が作り出した戦争だと言われるようになりました。ある時キューバに派遣されていた記者が「ハバナは平和で戦争状態ではない。記事は書けない」と報告すると「ジャーナル紙」のウィリアム・ハーストは「戦争は私が作る。おまえは記事を作れ」と言ったという話さえ残っています。

 この事件をきっかけに、ジョゼフ・ピューリッツァは記事の正確性を優先するよう「ワールド紙」の方針を変更していきました。正義と真実を伝えるその姿勢は変わらず、後にパナマ運河開発をめぐるリベート問題でルーズベルト大統領と裁判で争うことさえありましたが「新聞は真実を伝えるという絶対的自由がある」というジョゼフの主張は、いまでもアメリカのジャーナリストたちのなかに生きています。

 コロンビア大学大学院のジャーナリズム科と、ジャーナリズムのアカデミー賞と呼ばれる「ピューリッツァ賞」は、彼の死後、遺言に従って設立されました。




「ジョゼフの遺言」

 イエロージャーナリズムと呼ばれた自らの報道姿勢に危機を感じたのか、ジョゼフ・ピューリッツァは遺言の中で、ジャーナリスト育成のため、コロンビア大学の大学院にジャーナリズム科を新設すること、そして優れた報道と文学のために「ピューリッツァ賞」の創設を書き残していました。200万ドルの寄付金がコロンビア大学に残され、その一部がジャーナリズム科で学ぶ学生のための奨学金の基金、そして「ピューリッツァ賞」の賞金に使われました。

 1917年の創設時にはジャーナリズムと文学の2分野だけだった「ピューリッツァ賞」でしたが、現在では報道写真や論説など全12部門からなるジャーナリズム分野と、小説、アメリカ史など6部門からなる文学分野に加え、音楽分野でも賞を出しています。

 特に1942年から新設された報道写真部門は国際的に注目を浴びるようになりました。硫黄島で星条旗を掲げるアメリカ兵をはじめ、ケネディ暗殺の容疑者オズワルドの射殺シーン、ワールド・トレードセンターの瓦礫と星条旗を掲げる消防士の写真がなどが知られています。




★ Website

The Pulitzer Prizes

「ピューリッツァ賞」の歴史解説や過去の受賞記録が見られます。1995年以降は、受賞作品も納められています。



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